世の中

教育などについて考えたことを書きます

ベンチを使った朝の会について その2  ベンチに座らない子をどうするか

 前回の記事でも書いたが、ベンチを使い始めたのは昨年度の2学期からだ。夏休みの間に近くのホームセンターでベンチを購入し、組み立て、2学期に臨んだ。ベンチを導入したのは当然、イエナプランや岩瀬直樹先生の実践から影響を受けたからだ。

 

 しかし、当然ながら最初から上手くいくわけがない。そもそも、どのような実践であっても導入し始めた頃は上手くいかないものだ。特に「憧れ」を抱いて行う実践は、「理想的な状態」が頭の中で出来上がってしまっているので、どうしてもそれとのギャップが浮き彫りになって、苦しくなってしまうことが多い気がする(自分に限ったことかもしれないが)。ちなみに、今の教育関係の出版物は、基本的に「完成された状態」を読者に届けるというパターンが多いので、上手く行かなかったときに苦しくなってしまう人は多いような気がするが、どうなのだろう。このことはまた違うときに掘り下げてみたい。

 

 では実際にどんなことで難しさを感じたのかというと、次のようなことが挙げられる。

 

①ベンチに座ってみたものの、何をしたら良いのかが分からない。

②ベンチに座った子どもたちが、落ち着かない。

③ベンチに座らない子がいる。

 

 ①は、新しい試みに起こりがちなことだ。手段が目的化してしまっていたのだろう。まあ手段が目的化することなど当然発生することなので問題はない。岩瀬さんやKAIさんのブログなどを読んで、自分なりの朝の会を構築していった。

 ②は、低学年で起こりがちなことだ。ベンチはどうしても隣同士の距離が近くなって、過刺激な状態が多くなってしまう。特に男子が、その刺激に反応して、場と関係のない話を始めたり、ときにはふざけて暴れたりする。こういったときは、直接注意することもいいが、あまり注意が増えると場が冷えてしまうので、例えば低学年でよく使われる手遊び歌で注意をこちらに向けられるようにするのがいい(自分はあまり知らないが)。朝の会の時間を、できるだけ短くするというのも重要だ。数ヶ月が経てば、子どもたちは必ず落ち着いて話が聞けるようになる(と思う、たぶん)。

 

 さて、問題は③だ。この「ベンチに座らない子がいる」というのが、自分がベンチを使った朝の会をしていくにあたって、いちばん苦労した点だ。

 ベンチを使った朝の会を始めるにあたって、自分の頭の中には、子どもたちがベンチに座っている状態が描かれていた。それがこの実践のスタート地点だと思っていたのだ。しかし、実際にやってみて、それが甘い考えであったことを痛感する。ベンチに座らない子がいるのだ。考えてみたら十分あり得ることなのに、自分はなぜかその可能性を考慮していなかった。きっと様々な本や映像などを通して、イメージが固定されてしまって、その枠の外を考えることができなくなってしまっていたのだろう。

 ベンチを使った朝の会を行うに当たって、この「座らない子がいる」という状態は、なかなか苦しいものがある。ベンチに子どもたちが集まるということは、普段使っている座席には、基本的には誰も残っていないはずだ。しかし、ベンチに座らない子がいるということは、誰もいない席に1人だけぽつんと残されている状況が生まれる。その光景は担任にとって苦しい。その子が学級集団から疎外されているかのように感じられるからだ。当然、ベンチを使ったから学級集団に入りづらくなったわけではなく、ベンチを使って一カ所に集まったから「入りづらさ」が可視化されただけのことである、と認識することもできるだろう。しかし、それでもやはり、集団には入れない子どもの姿を目の当たりにするのは、苦しいものがある。

 

 では、子どもはどんなときにベンチに座らないのだろうか。自分は次のような理由が挙げられると考えている。

 

①他にやりたいことがある。

②集団が苦手。

③他の児童との関係性が悪い。

④集中力が続かない。

 

 ①については、声をかけて、何をしているのか、どこまでやったら座れるのかを聞くのがいいだろう。②と③については、なかなか対応が難しいが、誰の隣なら座れるのかなど聞いたり、子どもに声をかけてもらったり、じっくり取り組んでいくことが大切だ。④は最初はベンチに座っていたものの、ふらふらと他のところに行ってしまう場合だが、これについては自分はそんなに気にしなくて良いと考えている。

 

 ベンチに座らない子への対応は、ヒデゥンカリキュラムを強く意識して行わなければならない。そしてここが非常に難しい。例えば放っておくならば、「あの子は放っておいてもいいんだ」というメッセージを子どもたちに与えてしまう。叱るならば、「ベンチに座らないあの子はダメな子なんだ」というメッセージを与えてしまう。つまり、放っておかず、しかし無理強いしないようなバランスで対応しなければならないのだ。当然ながらこれが非常に難しい。自分も本当に苦悩した。

 自分の場合、最初に一声かけてみたり、ある程度会が進行してから呼びかけてみるとか、とにかくあの手この手で働きかけ続けた。それがすぐに実を結んだわけではないが、とにかく担任として、気にしているということを周りの子どもたちに伝え続けることが大切だと考えていた。ただ、当然それを日々繰り返していくのは、かなり困難だ。苦しくなるときもある。

 もし、支援の先生など、教室に入ってくれる先生がいて、サポートしてくれるなら心強いだろう。ただ、こういう取り組みを理解できていなければ、マイナスの効果が出てしまうから気をつけたい。どう伝えれば良いのかが難しいのだけれども。

 

 ベンチに限らず、今の学校では、「参加しない児童をどうしたらいいのか」ということが常に難しい問題としてあると感じる。特に年度初めの頃は、毎年そのような児童への対応にかなりの労力を注ぐ必要がある。もしかすると自分が勤務してきた学校に限ったことなのかもしれないが、もし全国的にそのようなことが起こっているなら、何が原因なのかを確かめていく必要があるだろうなと思う。

ベンチを使った朝の会について その1

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 3学期の途中から、ベンチを使っての朝の会を始めた。ベンチを使っての朝の会は、昨年度の2学期から始めていたが、今年度はコロナの影響もあって、ずっとできない状態が続いていた。厳密に言うと絶対にできないというわけではなかったが、校内の状況を見て、やらないという判断をせざるを得なかった。しかし、校内の空気や地域のコロナの状況から判断し、3学期からベンチを使っての朝の会を開始することにした。
 
 今年度初めてベンチでの朝の会だったが、今年度は持ち上がりで、学級(3年生)の半数の児童が前年度にベンチでの朝の会を経験していたので、導入は予想よりスムーズにいった。自分自身も、昨年度何度もやっていたので、体に染みついていたのかもしれない。
 
 ベンチでの朝の会は、大まかには以下のような流れで行った。
 
①あいさつ係さんの号令による「おはようございます」
②近くの友だちと健康チェック(岩瀬直樹先生の実践を真似している)。続けて、昨日の放課後に何をしていたのかを話す。
③くじアプリを使ってランダムに2〜3名を指名して、スピーチを行う。
④学級通信を配って読み聞かせ。
⑤今日の予定。
 
 時間で大体15〜20分ほど。1時間目のチャイムが鳴ってから始めるので、当然ながら1時間目はその分、他にできることは少なくなる。
 スピーチは、ランダムに指名するので、なかなか思いつかない子もいたが、そのときは次の子をくじアプリで選んで、先にスピーチをやってもらった。その間に、何を話すのかを決めることになる。全員がその間に何を話すのかを決めることができていた。
 スピーチについては、質を求めることは全くなかった。ほとんどの子が「きのうそろばんの習い事に行きました」程度の短いスピーチだったが、それ以上長いものを求めたりすることは全くしなかった。質を求めれば、子どもたちにプレッシャーがかかってしまい、場が固くなると思えたし、また短いものであっても、そのあとの質問で、内容が補完されることが多かったからだ。
 もう少し突っ込んだ話をすれば、自分はベンチでの朝の会を、あくまで「子どもたちを鍛える場所」としてではなく、「心地よい場所」として機能させたいと考えていた。お互いの顔を見て、他愛もない話をする。その中で、仲良くなってもらいたい、居心地の良さを感じてほしいという願いがあってやっていた。ちなみに、「他愛もない話」については、例えば誰かのスピーチで「お好み焼きを食べた」という内容の話があったら、「お好み焼きと焼きそばだったらどっちが好きですか、近くの人とお話しましょう」みたいに言って、生みだしていた。これも岩瀬直樹先生から教わったことだ。こういった他愛もない話を積み重ねることが、結局のところ「民主的な学級」への近道であることが、今年度を通してよく分かったと感じる(自分の学級が民主的などとは到底思わないが)。
 
 ところで、ベンチでの朝の会を始めて、学級が大きく変わったかというと、なかなか歯切れの悪い返答しかできないなと思う。なぜなら、こういった取り組みは、その効果を実証することが難しいからだ。あくまで体感的な「効果」しか語るしかできない。ただ、あくまで体感的な体感的な効果であると断った上で言えば、その効果はあったと思う。その効果には、次のようなものが挙げられる。
 
①授業ではなく子どもたちのふだんの生活から1日を始めることによって、学校外の時間との接続をスムーズに行える。
②先生中心型のクラスから、中心のないネットワーク型のクラスへの転換を促せる。
③学級の雰囲気がよくなる。
 
 ①については、リスクがある。ふだんの生活を持ち込むことによって、生活の中に潜む「格差」が明らかになって、それによって児童が苦しむということは、十分考えられる。地域によっては、あまり積極的に持ち込まない方がいい場合もあるだろう。当然ながら、「話したくないことは話さなくていい」というルールは常々口にし続けたい。
 
 ②については、当然ながらベンチで朝の会をすれば中央集権型の学級から脱出ができるなどと言いたいわけではない。ただし、子どもたち全員が黒板の方を向いた状態で朝の会をしたり、あるいは班の形で朝の会をするよりも、ベンチを使ったサークル型の朝の会は、形式で言えば「民主的」であることも確かであるとも思う。そういった形式を重視することは、時に大切であるというのが自分の考えだ。それは、あくまで自分しか分からない程度の小さな納得感なのかもしれないが、担任として子どもたちの前に立ち続けるのならば、そういった小さな納得感であっても大切にすべきだと自分は考えている。
 
 ③については、これこそ正に教師の主観でしかないだろう。しかし、普段の席からベンチに移動する行為は確実に子どもたちの関係性に流動性を与えるし、その流動性が新しい関係性の構築に繋がっていくというのは、納得できるものがあるのではないだろうか。
 
 ちなみに、ベンチを教室に持ち込むことには、上記の3つ以外にも効果や意義があるが、この記事においては触れないでおく。また、運用上難しい点も、別の記事で指摘したい。

【読了】赤木和重『子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ』

子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ

子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ

  • 作者:赤木和重
  • 発売日: 2021/02/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
  赤木和重先生にご献本いただいた本を読み終える。物腰の柔らかい文体の向こうにラジカルな思想が見え隠れする、正に赤木先生をそのまま体現するような一冊だった。
 
 この本、一応は子育てについての本だけど、ここに書かれていることは、その多くが(いやほとんどが?)、「教育」や「学校」に当てはめることができるのではないかと思いながら読み進めていた。つまり、文中に出てくる「子育て」を「教育」に置き換えても、まんま意味が通るのだ。
 
 例えば第一章「あなたの子育て、ノロわれてます!?」に、こんな文章が出てくる。
 しかし、子育てに「こうすればよい」という正解はありません。絶対にありません。親の性格、子どもの性格、家庭の事情、現代社会の状況など無数の要因があるため、「これ!」という正解は出せないのです。
 でも、やっぱり正解がほしい。子どもに幸せになってほしいから。
 すると、「子育て、かくあるべし」という硬直した「正解」がどこからともなく漂ってきて、ノロイという見えないお化けに変身し、子育てを縛り、息苦しいものに変質させます。

 

 この文章の「子育て」の箇所を、「教育」に置き換えるとどうなるだろう。
 

 しかし、教育に「こうすればよい」という正解はありません。絶対にありません。親の性格、子どもの性格、家庭の事情、現代社会の状況など無数の要因があるため、「これ!」という正解は出せないのです。
 でも、やっぱり正解がほしい。子どもに幸せになってほしいから。
 すると、「教育、かくあるべし」という硬直した「正解」がどこからともなく漂ってきて、ノロイという見えないお化けに変身し、教育を縛り、息苦しいものに変質させます。

 
 ああ、心当たりがある。自分もそういうノロイにつきまとわれているし、周りの先生たちだって同じだろう。そして当然、置き換えられるところはここだけではない。例えば第二章の「ちゃんとのノロイ」も、第三章の「やればできるのノロイ」も、全部学校の中にはびこっているノロイなのだ。
 
 赤木先生はこういった数々のノロイの存在を指摘しながら、処方箋を出していくが、そこに共通しているのは「できなくてもいいんじゃないの」「とりあえずくつろいでみたら?」の精神である。その精神を赤木先生は「安楽さ」と表現しているが、なるほどそれは、今の学校に決定的に欠落しているものだろうなと思う。
 
 学校は基本的に、「(できないことを)できるようにさせていく」場所であり、子どもたちを「ちゃんとさせていく」場所だ。しかし、それだけではただただ息苦しい場所が出来上がっていくだけだ。なぜなら、この本に書かれているとおり、幾ら頑張ってもできないことがたくさんあるからだ。幾ら頑張ってもできないことがあるのは、発達障害をもつ子どもたちだけのことではない。
 
 だから先生である私たちは、「できるようになる」という価値を子どもたちに提示しながら、「できるようにならなくてもいい」という正反対の価値を子どもたちに提示する必要があるのだ。この相反する価値観を、同時に子どもたちに提示するというアクロバティックな芸当を私たち教師は子どもたちに示す必要がある。しかしそれは当然ながら大変困難な行為だ。自分自身が「ノロイ」につきまとわれていることもあるだろうし、また他の先生たちや管理職からの視線だってある。保護者からの視線も当然あるだろう。学力テストや授業アンケートなどの存在も大きい。そういう「できるようにさせていく」ことのノロイがたくさんはびこっている中で、単身「できるようにならなくてもいい」という価値観を子どもたちに示し続けるのは、今の時代において非常に困難だ。そういう自分だって、つい先日は本当にくだらないことで子どもたちを叱りつけてしまったぐらいだ。一人で子どもたちの前に立ち続けることは、本当に難しいものなのだ。
 
 しかしこの本を読んでいると、そんなノロイノロイにまつわる苦悩が、ほんの一時的にでも和らいでいくのが分かる。これは正に、赤木先生の柔らかい語り口と温かい眼差しのたまものだ。読者の苦悩や葛藤に寄り添いながら、少しずつノロイをほぐしていく。正にこの本自体が処方箋のような作りになっているのだなと思う。
 
 最後に、少し長くなるが、最終章「子育てのノロイをほどく」から次の文章を紹介したい。
 このようなありとあらゆる能力を、子どもに身につけさせようとして、親も努力します。学習塾はもちろんのこと、早期から英会話を習わせたり、プログラミング教室に通わせたり、水泳教室に通わせたり……。結果、学力や体力を身につけつつ社会性を伸ばすといった、ウルトラC的なことが要求されるようになっています。ほんまに大変です。
 しかし、冷静に考えてみれば、そこまで親ががんばらないといけない社会って、おかしくありません? 必死に子育てをしても、非正規雇用が三割を超える中流崩壊した社会が現実としてあります。しかも、万一、働けなくなったときの生活保護の受給に対しても世界トップクラスの冷たい視線が向けられる社会です。
 そんな社会だからこそ、私たちは、自分たちが意識する以上に、子育てにたくさんの時間やお金をつぎこまざるをえない状況に陥っています。そして無理するからこそ、「教育虐待」という言葉に代表されるように、子どもを、そして親自身を追い詰めてしまうことがあります。社会が「一億総活躍」しなくても、だれでも安心できる設計になっていれば、子育てがこれほど窮屈にはならないはずです。

 

 この文章の「子育て」を「教育」に、「親」を「教師」に置き換えるとどうなるだろう。正に今の教師たちが陥っている困難な状況が明確になるのではないだろうか。現場の教師たちも、正にプライベートな時間を捧げて、ポケットマネーを注ぎ込んで、子どもたちを育てようと必死だ。しかし、なぜそこまでやらないといけないのだろうか。そこまでやらないといけない状況があること自体が問題なのだ。そして、そういった熱心な働き掛け自体が子どもたちを、そして教師自身を追い詰めてしまっているかもしれないのだ。この袋小路のような状況を打破するためにはどうしたらいいのかは分からない。社会全体を変革するなんてことは、当然すぐにはできない。自分のできることは、子どもたちと自分が楽しく「安楽に」過ごせる教室を作るということだろう。今の自分にはそれしかない。まあそれだって、大変困難なことなんだけれども。
 
 全ての親、そして教育者にオススメの一冊だった。

環境調整と一斉授業

特別支援の方法に環境調整というのがある。支援対象の子を直接どうこうというのではなく、周りの環境を調整して、その子が過ごしやすくするということだ。例えばよくあるのは、黒板周りの掲示物を少なくしたり、なくしたりすることなんかがある。まあ、特別支援を勉強したことがある人なら、誰でも知ってるだろう。

 

環境調整は、特別支援の基本だし、自分自身、支援をやっていたときは何度もやってきた。いや、担任をもってからもそうだろう。支援対象の子であってもなくても、その子が過ごしやすいように環境を調整してあげるというのは、授業を行うにしても学級を経営していくにしても基本だ。わざわざ「環境調整しよう」なんてことは考えることもなく、ふだんから取り組んでいるに等しい。ちなみにこういう環境調整を、時と場合によっては「ユニバーサルデザイン」と表現したりする。

 

一方で、実は自分はこういう環境調整という行為に対して、懐疑的な思いを抱いていたりする。例えば先に挙げた、黒板周りの掲示物の件。注意力が散漫な子が、授業に集中できるようにと行われ始めた支援方法で、実際かなりの学校で導入されているものだけど、はたしてこれって本当に効果があるんだろうかと疑問に思うことが多い。むしろ、画一的な授業スタイルや環境を強要するツールとして使われてしまっていることすらあるのだ。

 

もう少し詳しく説明すべきだろう。黒板周りの掲示物を減らす場合、不要な刺激物を取り除いて、授業に集中できるようにするという意図があるのだけど、このとき授業スタイルは、黒板周りの掲示物を取り除くのだから、黒板を用いた一斉授業ということになる。つまり、子どもが板書や先生の話に集中できるように、掲示物を減らしたりなくしたりする、という意図があるのだ。

 

当たり前の話だけど、自分はこのことをとても重要だと思っている。なぜなら、結局のところ、通常授業における支援のあり方は、多くの場合「一斉授業を成り立たせるためのもの」だからだ。

 

多くの場合、通常授業における支援は、一斉授業を対象にしている。子どもが、いかに授業に乗れるか。先生の話を聞き逃さないか、板書をノートに写せるか、授業に集中できるか。そのことを念頭に置いて支援を行う。先の掲示物の件もそうだ。意地悪く言えば、いわゆる「黙れ、座れ、俺の話を聞け」にいかに子どもを適応させるのかをやっているようなものだ。

 

もちろん、掲示物を減らしたりなくしたりすることに効果がないとは言わない。きっとそういった支援が適している場合もあるだろう。とは言え一方で、古典的な一斉授業スタイルをやめるだけで、すぐにその支援自体が不必要になる場合もかなりある。そもそも、黒板を使って、先生が授業の中心になって、全員が同じペースで同じことを学んでいくというスタイルそのものが、支援対象の子どもたちにとっては、ハードルが高すぎるのだ。そして、そう考えれば通常授業における支援が、実は子どもたちへの支援ではなく、一斉授業や授業者に対する支援であることに気づくことができる。

 

いわゆる「ユニバーサルデザイン」と言われるものに対する自分の危惧はそういったところに根差している。要するに、「そんなの一斉授業やめたら、全部解決することなんじゃないの?」ということなのだ。

 

それに加えて、学校によってはそういった「掲示物を減らすこと」が、暗黙の了解になって、各クラスに強制されることがある。無意味なルールがまたひとつ増えてしまうのだ。こうして学校の画一性はより深まってしまい、自由な教育活動はいっそう難しくなってしまう(学校の「息苦しさ」は、こうやって再生産されていく)。

 

とある人は、この掲示物を減らすという支援方法について、非常に権力的であると表現していた。確かに、そういうふうに捉えることもできるだろう。一斉授業は、「今は先生の話を聞く」「今は黒板の字を写す」と、そのときそのときで集中する対象を変えていく必要がある授業スタイルだ。そのときに集中する対象はもちろん教師が指示するものであって、自分の考えを挟む余地は、基本的にはほとんどない。掲示物を外すことは、その指示通りに動けるようにするためのものだ。つまり、そこの中心には常に教師がいて、子どもたちはその周辺にいるしかない。その構造は、確かに権力的であると言うことができるだろう。

 

一方で(ここまで批判してなんだが)、注意力がない子どもたちにとって、掲示物を減らすことは、一斉授業についていくためには非常に重要なのだろう。また、保護者にとっては、担任が一斉授業をしていく限り、掲示物を減らすという支援は、非常に重要なものであり続ける。保護者にとっては、まず第一に、自分の子どもが授業についていけるかどうかが重要なのだ。そのための大切な手段を批判されては我慢ならないだろう。権力的であろうとなかろうと、授業の目的は、授業の内容が理解できること、ついていけること。そうでなければ、自分の子どもは「学校生活のなかひどく自信を失って」、「社会にうまく適応できないかもしれない」。特に、発達障害児の保護者は、勉強熱心であればあるほど、そのような恐れを抱いているのではないだろうか。

 

この問題はとても根深い。自分がここで一斉授業を批判しても、日本の一斉授業中心スタイルを変えることなんて到底できない。そして、一斉授業をやめれば全てが必ず解決するというわけでもない。もちろん日本の教育が、「同じ場所で・全員が違うことを学ぶ」というスタイルになれば、かなりの部分で解決できる問題だろうが、今の段階ですぐに実現できるわけでもない。

 

ということで、この話に結論はない(ただ、現場の先生たちはここらへんのことにもう少し敏感になるべきだろうとは思う)。

『アルマジロ』

『アルマジロ』を見た。

 アフガニスタンの最前線、アルマジロ基地に派兵されたデンマークの若い兵士たちに7ヶ月密着撮影を敢行したドキュメンタリー映画。いわゆる「国際平和活動」と呼ばれるものが実際にどのようなものかが分かる内容になっている。


本国デンマークではこの映画を切っ掛けに、平和維持活動について議論が起こったみたいだが、なるほど「国際平和活動」という言葉を前提にすれば、ここに収められた映像は、議論を巻き起こすものかもしれない。しかし、かつての凄惨な「戦争」を思い描きながら見れば、少しばかり肩すかしを食らう内容とも思える。


自分は戦場に行ったことはないのでわからないが、おそらくここに収められているものが、現代における「戦争」の姿なんだろうと思う(もっと激しい場所もあるだろうが)。誰が敵なのかもわからず、どこが戦場なのかもわからない。第一次世界大戦みたいに、1日で数万の兵士が亡くなるということはなく、散発的な戦闘ばかりが続く。もちろんその中で怪我をしたり、命を失ってしまう者もいるが、かつての大きな戦争に比べれば規模は遙かに小さい。その代わり、出口は見えない。

 

兵士たちが派遣に志願した理由は、様々だ。一人は「仲間が欲しかった」と言い、もう一人は「刺激だ」と言う。明らかに彼らは、自己実現の手段としてこの機会を捉えている。とは言え、散発的に起こる戦闘時以外は、彼らの日常は非常に怠惰だ。ポルノ動画を見て笑い転げたり、兵士同士でFPSを楽しんだりする。任務の合間に「退屈で死にそう」と漏らしたりする。その様子は日本の若者と変わらない。


<終わりなき日常>
彼らの姿を見ていて、思い浮かんだのはこの言葉だ。
彼らの日常は、全く、この日本で繰り返される怠惰な日常の延長線上にある。いっそのことフィッシュマンズでもかければ、かつての東京の<終わりなき日常>と見間違える映像ができあがるとも思えるぐらいだ。あるいは脳裏に浮かんだのは、黒沢清の『大いなる幻影』。もしかしたら自分は彼らの姿に、親近感さえ抱いていたかもしれない。


もちろん戦闘時になると、そんな怠惰な日常は一変する。タリバン(らしき者たちからの)突然の発砲。中には負傷し、病院送りになる者もいる。両足を切断することになる者もいる。仲間の負傷や死の知らせは、兵士にとって悲痛なものだ。ある兵士は自分のせいで命を落とした子どものことを思って苦悩する。とは言え戦闘後の彼らは、たいていの部分で高揚感に満ち溢れている。自分たちの戦闘を振り返り、楽しげに話す姿は、まるで試合後のスポーツ選手であるかのようだ。


戦闘後のある場面で、1人の兵士はこう口にする。
「戻ってきて味わう、戦ったという充足感。もう一回やりたい」
それに対し、片方の兵士は「俺は嫌だな」と言う。
そして、戦闘と代わり映えのない日常とのくり返しの中、6ヶ月の任務は終了する。

 

この映画を観て、自分も戦争に行きたいと思う若者は、きっと多いだろう。もちろんこの映画は戦争を賛美しているわけではないし、またこの映画を観た人のなかには、平和維持活動とは名ばかりの内容に憤りを感じる人もいるはずだ。

しかし一方で、彼らの姿が魅力的だと感じる者もいることだろうと思う。
特にFPSを日常的にやりながら育ってきたような若者は、ここで示される「戦争」の姿に拒否反応は示さないだろう。むしろ、はっきりと希望に近いものを見出してもおかしくないと自分は考える。
なぜなら、ここには私たちの日常とそう変わらない<終わりなき日常>があり、そしてなかなか手に入らない<仲間>があり、<生きている実感>があるからだ。
そして、ここ日本でも若者たちがこれから、<自己実現の手段>として戦争に参加することが普通になる日がくるのかもしれない。


戦争の悲惨さだけを強調するだけでは、戦争の悲惨さが薄れたときに、説得力を失う。
もちろん、この映画に収められた戦争であっても十分に悲惨だ。生活を破壊された人々がいて、命を失う人たちがいる。しかし、もしその悲惨さが私たちの身の回りの交通手段やイベントとそんなに変わらないと捉えられればどうなるのか。

毎年たくさんの人たちが自動車事故で悲惨な死を迎えているのだ。
花火大会であっても、悲惨な死は付きまとう。

事実、作品の中で、子どもを巻き込んでしまった兵士に対してかけられる慰めの言葉は、“戦争の死と、他の事故で起こる死は、何も変わらない”という論理に裏付けされたものだった。


このような現実を前に、どのような切り口で子どもたちに戦争のこと、そして平和のことを伝えるべきなのか。
難しいが、この問題はこれからの教育の在り方全体を考えるにあたっても、避けて通れないと思う。

テレビに出ている人をけなすこと

姪っ子甥っ子たちが帰って、ようやく静かな年始を堪能している。
しかしいったい、いつから正月はこんなにもうるさいものになってしまったんだろう。
辛いのは子どもの声ではない、テレビから流れてくる音だ。
お笑い芸人の叫び声や、歌手の馬鹿でかい歌声など、あまりにtoo muchでずっと頭痛がひどかった。
もちろん、そんなもの今に始まったことではないが、今回はなぜか今まで以上に辛く感じられた。
まあ、単純に前のことを忘れているだけかもしれないけれど。


今回とても気になったのが、姪っ子甥っ子たちの、テレビに対する文句だった。
例えば自分の気に入らない歌手の人が出てきたら、キモイ、バカ、みたいな悪口を延々と口にし続ける。
一方、自分のお気に入りの歌手が出てきたら、ずっと画面に釘付け。
こっちにしたらどちらもほとんど差はないように見えが、きっと彼らにしたら大きな違いなんだろう。
しかし、それでも彼らが終始つき続ける悪態は度が過ぎていたし、聞いていて辟易するばかりだった。
もし学校でこんな物言いをしている児童がいたら、きっと厳しく注意していただろうなあと思う(まあ、公的空間と私的空間の違いはあるが)。


彼らのそういう言動の裏にどんなことが窺えるのかはわからない。
現代特有の何かが隠されているのかもしれないし、昔からある現象なのかもしれない。
そもそも大人だって同じように、テレビに出ている人のことを意味の分からない理由で徹底的に貶めたり、あるいは会ったこともないのに「性格が良い」なんて一方的に持ち上げたりする人はたくさんいるのだから、子どもの言動だけを切り取って取り上げるのは不公平とも言えるのかもしれない。


ただ思うのは、子どもたちがそうやってテレビに出ている人のことを、容姿や歌の上手い下手を理由に徹底的に貶めたり、あるいは自分の理解できない表現をキモいというひと言で切り捨てたりするのは、彼らの将来を考えれば、はっきり言って全然得策ではない、ということだ。
そういう言動は、巡り巡って彼ら自身の立場を危うくしてしまうことに繋がってくるわけで、場合によっては差別構造を再生産することだってあるだろう(ていうか、もう既に生産してしまっている)。
その恐ろしさを知っているからこそ、子どもたちの悪態をつく姿が、自分はこんなにも気になってしまうんだろうなあと思う。
そしてこれって、『学び合い』で言う、「得」か「徳」か、という話にも繋がってくるんだろうなあと思う。
テレビに出てくる人をけなさないことは、「徳」ではなく「得」なのだ、それも圧倒的に。
とりあえず、それを教室の子どもたちに伝えられる教師になれるよう頑張りたいと思う。

授業で積み重ねられる失敗体験

この前の出来事。
とあるクラスの算数の授業で。


ある子が自分の解き方を発表したいと言ってきた。
その子はもともと人と関係を上手く結べない傾向があって、自分の意見を挙手して発表すること自体稀だったので、僕は驚きつつも、言ってごらんと勇気づけの言葉をかけたのだった。
するとその子は挙手して自分の計算の仕方を発表したのだけど……


実を言うとその子の解き方は既に他の子が発表していて、板書もされていたのだった。
「え?」とクラスの子たちがその子のことを見る。
先生も「え?」という表情を浮かべ、「あ、これと一緒だよね」と言って、途中まで板書していたその子の計算方法を、サッと消してしまったのだ。
自分はその様子を見てドキリとした。
それはたぶん、自分がずっとその子の側で解いている過程を見ていたからなのだろう。
彼は自分なりに問題に取り組み、こちらのヒントも手がかりにしながら、自分なりに答えに辿り着くことができた。
そして、勇気を出して(彼は「暇だから」と言っていたけど)自分の考えを発表しようとした。
しかし、彼の考えは「既に出ていた」という理由で、黒板に書かれることはなかった。
わざわざ消されてしまったほどだ。
けっこうその光景は、ショックなものがあった。


するとその子が呟いた。
「ぼくの意見は消された」
彼の気持ちが痛いほどわかった。


もちろんその先生のことを一方的に責めることはできない。
授業の進行上、仕方なかったのだろう。
ふつうは同じ意見は書く必要はないと判断するのが普通だ(ただ、その授業は同じ意見でも言って良いと解釈できるところがあったのも確かなんだけど)。
しかし、彼の隣でその解いていく過程を目にしていた自分にとっては、その行為は理不尽なものに映った。
そして、彼自身もそう感じた。
授業者と授業を受ける者の間に横たわる溝。
そしてきっと自分も、同じようなことはいっぱいやってきている。


板書のもつ「承認」という機能。
一斉授業の限界。
授業でつくり出される失敗体験。
色んなことを示唆する出来事だった。