世の中

教育などについて考えたことを書きます

運動会の練習にて

運動会に向けての練習が本格的に始まっている。そのせいで時間割が変則的になってしまい、自分自身毎日かなり立て込んだ状態が続いてしまっているけど、一方でふだんは見られない子どもたちの姿が見られるところもあって面白い。そしてその姿とは、「集団の姿」と言い換えることができるのだろうと思う。

中でも印象的だったのが、3年生の練習での様子だった。そのとき3年生は運動会でやる棒運び(正式名称は違うかも)の練習に初めて取り組んでいた。

ここで言う棒運びというのは、4人が横一列になって、横にした棒をもって走り、帰ってきたら今度は並んでいる人たちの足下をくぐらせて、いちばん後ろまでいったら今度は並んでいる人たちの頭上を通らせて、次の人たちに棒を渡す、という競技のことだ。この、足下をくぐらせて頭上を通らせていくというのが3年生たちには難しかったみたいで、足を引っ掛けてこけてしまう子なんかも続出して、最初はかなり苦戦している様子だった。自分も声をかけたりして、あれこれ働きかけをしていたのだけど、それでも転倒する子や未だにルールを理解していない子などがいて、なかなか大変な感じだった。しかしそのあとしばらくしてふと気づいたら、全体としてとてもスムーズに流れていたのだ。もう本当に最初とは見違えるぐらい。その変化に自分は密かにびっくりしてしまっていたのだけど、同時にその変化の要因もはっきりわかっていた。

変化の要因は、大きく分けて2つある。
ひとつは個々の子どもたちが競技に熟達したということ。やはりそこでは運動神経のいい子や、理解力のある子が真っ先にコツをつかんでいたと感じる。
もうひとつは、良い声かけがいたるところで発生し始めたということ。先ほど述べたコツをつかみ始めた子を中心に、周りに対しての声かけが発生し始めたのだ。特にまだコツをつかめていない子に対する声かけの効果が絶大で「来るよ!」「ジャンプして!」なんて声かけをしてくれたおかげで、最初競技にほとんど参加できていなかった子も最後にはうまく参加できるようになっていた。ちなみに、周りに対する声かけは、こちらがするように促したところは一切ない。

これらの変化とはつまり、「集団の変化」であると自分は考える。ひとつの課題に対してそれぞれの子どもが取り組む中で、たくさんの交流が生まれ、集団として成熟していく。もちろんそこに教師からの働きかけはあるにはあるが、それ以上に子どもたちが相互に行う働きかけの方がはるかに強力で、効率的だったりする。先に示した3年生の例は正にそれで、子どもたちは競技に取り組む中、自分から自分たちの集団のレベルを上げたのだ。運動会の練習はそういうふだんは見られない集団の姿や変化をはっきり目に見える形で示してくれるから面白いと思える。

とは言え一方、自分はこうも思う。なぜふだんはこういう集団の姿や変化があまり見えないのだろうか、と。子どもたちはふだんの授業においても、1人ではなく集団で学習をしているはずだし、そこには必ず集団としての姿や変化が見られるはずだ。しかし、ふだんの授業においてそのような姿がはっきり示されることは少ない。ほとんどの場合見えないし、むしろ見えないように仕向けられていると感じられるぐらいだ。そしてふだんからここで例示した運動会の練習にも近い、集団の姿がはっきり見られる学習活動が行われれば、子どもたちはどれだけ変化していくのだろうかと思うのだ(もちろんそこにはかなりの苦労が伴う部分もあるだろうが)。

子どもたちは本来、学び合う力を持っているものであり、またどんな学習であっても(たとえ個別学習であっても)、人との関係性の中で行われるものである。だからこそ必ず、集団としての成熟を目指さなければならない。では、どんな学習活動がふさわしいのだろうか。いっそう考えていかないといけない。