世の中

教育などについて考えたことを書きます

宿泊活動での子どもたちの姿

二十数年ぶりに出かけた自然学舎。
まさかこの歳になって再び出かけることになるだなんて、奇妙な人生。
三日間べったりと、いつもと違う環境のなか子どもたちに付き添って過ごしてみると、ふだんは気付かないようなところが沢山見えて、とても面白かった。

いちばん感じたのは、子どもたちがどんな先生を望んでいるかということ。
やっぱり自分たちのやりたいことを認めてくれる先生がいちばん良いんだよね。
一部の子どもたちにとってはどうやら自分はそういうタイプの先生らしく、実際「やっぱり豊田先生いいなー」なんて言葉が聞こえてきたり。
他の先生からすれば「甘い」「ルーズ」と映ることもあるだろうから手放しで喜ぶことはできないのだけど、それでも自分の指導や態度が子どもたちの支持を得ているところはあるのだから、そこは真に受けてもいいのかもしれない。
少なくとも手がかりになるとは感じる。

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自分は基本的に人の選択や考えに口を出すのが嫌いな人間で、相手の考えをとにかく尊重したいという姿勢で常に生きている。
そういう態度はもしかすると他の人からすれば奥ゆかしいだとか、先生として指導力がないだとかそういうふうに映ることがあるかもしれないし、実際改善しなければいけない点は多々あるのだけど、やはり自分の基本姿勢は「尊重」なんだろうと思う。
逆に言えばそれは自分自身、やり方に口出しされるのがたまらなく嫌な人間だから、というところもあるんだろう。
自分はプロセス重視な人間だし、自分の好きな音楽だってたぶん全部プロセス重視で作られている。
だからこそ人のプロセスには口出ししたくない。
『課題はこちらが設定する、しかし方法は問わない』というのが人の能力を最大限発揮できる最高の方法だと考えているし、いずれはその考えに沿って授業も学級もデザインしたいと考えている(怒られるかもしれない、否定されるかもしれないという恐れほど人の能力を失わせるものはない)。

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閑話休題、自然学舎で発見したのは、子どもたちの素の姿だったのかもしれない。
ふだんは学校という捉え所のない、責任の所在を曖昧にされた場所にいるせいでいまいち見えない子どもたちの素の姿が、丸っきり違う場所に移動したおかげでよく見えたと思える。
思い出したのは、岡田淳の幾つかの作品。
岡田淳の作品の多くは、先生(あるいは大人)がいない場所で、子どもたち同士が協力して様々な問題を解決していくという形態をとっているけど、自然学舎の子どもたちはまさしくそれに近い状態で、そしてむしろ子どもたちはそういう状況にいるときこそ、ふだんは見せない有能さを発揮できたりする。
自分はそんな子どもたちにいちいち感心しっぱなしで、見とれてばっかりいたのだけど、さて、明日から子どもたちはどんな姿を見せてくれるんだろう。
ちょっとは変わってて欲しいな。

 

二分間の冒険 (偕成社文庫)

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