世の中

教育などについて考えたことを書きます

SSTは意味がない

SSTは意味がない、という話。

昨日、5年生が体育でマラソンをしているので、外に出てみると、ちょうど自分が担当している男子が走っているところだった。
せっかくだから勇気づけるためにも、伴走することに。
たった3周ではあるものの、2人で仲良く走ることができたと思う。
ちなみにそのマラソンは、2人一組になって、相手の走ったタイムを周ごとに記録するというシステムをとっていて、その子のタイムもクラスの女子が記録してくれていた。
走り終わって、役割交代。
今度は男子が女子のタイムを記録する番になって、いちおうしっかり記録はできたのだけど……。
そのあとの出来事。
走り終わった女子がこちらに来て、用紙を受け取ろうとした手を伸ばした瞬間、いきなり男子が記録用紙を乱暴に投げつけて渡したのだ。
咄嗟に「こら!なんで投げるの」と言って「ごめんね」と男子の代わりに謝る自分。
女子はきっと慣れているのだろう、コクリと頷いて、用紙を手にして歩いて行ったのだった。

実を言うとそういう場面は男児を巡ってはよくあることで、「こら!」という言葉も怒って言ったわけでもなく、女子の気持ちを汲み取っての言葉であって、「先生の顔に免じて許してあげて」という意味だったりする。
そして、男児のその行動が、対人的な不安に起因していることは明らかであり、だから叱っても全然意味がないということはわかりきったことだった。
「ああいうときはありがとうと言って渡すのが良いんだよ。不安だからできないの?」と聞くと、「うん」とうなずく男児。
そしてもう、そのことについては深く追求しないことにした。

発達障害等を原因に、対人的なところで問題を抱えている児童は多い。
しかし多くの場合、その子に対しての指導というのは、ほとんど効果がない。
ほとんどの子は、知識としてのソーシャルスキルは身に付けているものだ。
しかし、実際にそのスキルを発動するには壁がある。
その壁は、ひと言で言えば「不安」だ。
否定されるかもしれない、という不安。
その不安はきっと、学校生活のなかで積もりに積もったものなのだろう。
だからそう簡単に除去することはできない。
だけど、その不安がその子と他者との間でできあがったものならば、その子に対しての指導だけで全てが解決されるわけはないのだ。
最も必要とされるのは、その子と他者との間でできる「安心」という果実だ。
むしろその子に対する毅然とした指導は、他の児童との間に溝を作り、不安はいっそう増大する。
そして事態はいっそう悪い方向に向かってしまう。

多くの問題行動の根本にあるのは不安だ。
それは個人の問題には絶対にできない。
そこにいる人たち全員で作り出すほかない。
だけど今の立場では、自分はそんな安心を作り出すことはできない。
ごめんねって、謝ることしかできない。
そんな状況がとても歯がゆい。