世の中

教育などについて考えたことを書きます

『せんせいのつくり方』を読んで

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

 

 10月9日読了。

岩瀬先生の新刊。
この本のキーワードは「違和感」なんだろうと思う。

学校の先生は子どもたちと生活するのが仕事なようなものだ。
教科だけに限らず、生活にまつわる様々なことを指導する。
そこで基準とされるのは、世の中の常識や、自分の受けたしつけや教育、学校の方針、法律、そして教師自身の願い……。
教師はそういった価値観を組み合わせながら、子どもたちを納得させ、導いていく。
逆に、そこで提示した価値観が、多くの子どもから同意を得られなかった場合、多様な子どもたちが集まる場所である教室を、上手く運営していくことができなくなってしまう。
それゆえ、教師は法や常識を知っていなければならないし、また自分自身の価値観も持ち合わせていなければならない。
そしてそれらを子どもたちにわかる言葉で説明できなくてはならない。
これは教師に要求される能力のひとつだと感じる。

しかし、その行為がいつも上手くいくとは限らない。
自分の考えが子どもたちに受け容れられないことだってある。
学校は、たくさんの人たちが集まって成り立っている場所。
不本意ながらも、自分のものではない考えに沿って指導しなければならないこともある。
自分の価値観であるつもりが、実は他人の価値観を借りていただけのことだってある。
子どもたちを導いているつもりが、ただ思い通りに動かしているだけのことだってある。
もっともらしいことを言って、実は自分の体面を保持したいだけのこともある。上手くいっているように見えるときだって同じだ。

表面的には上手くいっている、しかしもしかするとクラスの誰かはそのやり方で苦しんでいるのかもしれない。
その子の個性ややりたいことを圧殺してしまっているのかもしれない。
もちろん教室は多種多様な人たちが集まる場所。
必ずしもそこにいる全員の欲求を満たすことはできないかもしれない。
しかし、自分の「選択」が、もしかすると誰かの大切な世界を踏みにじっている可能性だって、あり得るかもしれない。人の心は目に見えない。
もちろんそれらは表情や文字などによって目に見えるものに変換されることもあるだろう。
しかし、たとえ目に見えたからといって、それが本当にそのまま、見た目通りに解釈していいものなのか。
本人でさえ気づかない感情だってあり得るのだから、まるで信用ならない。

大切なのは、引っかかりを感じること。
「違和感」をしっかり捉えること。
そして、その感情がなぜ起こったのか、丹念に考えていくこと。
そうすれば、その場ではわからないかもしれないことも、あるときスッとわかることだってあり得るのだ。
これは、教師を続けるに当たって欠かすことのできない過程だと自分は考えている。

この本は、正にその「違和感」から書かれたものだ。
自分は教師として、これでいいのだろうか。
自分のクラスは、これでいいのだろうか。
学校とは、これでいいのだろうか。
もっと他のかたちは、ないのだろうか。
そういったことを探っていく試み。
解は示されていないがしかし、姿勢は示されているだろう。
そしてその姿勢は、自分を十分に勇気づけてくれるものだったと感じる。