世の中

教育などについて考えたことを書きます

子どもたちの状態に対しての解釈の違い

先日の出来事。

とあるクラスの前を通ったら、担任の先生がいない中、何やら子どもたちが席を班の形にして、プリント学習に取り組んでいる。
中には立ち歩いて、他の席の子に話しかけている子もいたりしたのだけど、その雰囲気が何かとても良い感じだったので、気になって教室の中に入ってみることに。
どうやら担任の先生が出張らしく、自習に取り組んでいるとのことで、早速「先生これってどういうこと?」と聞いてくる子が何人か。
「熱心だな」と思いながら教えていたのだけど、その最中、あることに気づく。
遊んでいる子がひとりもいないのだ。
教室にいる子どもたちが全員、ひとり残らず熱心に自分のプリントに取り組んでいる。
ときどき立ち歩いたりする子も見られたが、それもわからないところを人に聞きたいがためであって、けっしてサボっているわけではない。
今まで色んな自習の場面を見てきたけど、こんなに熱心な状態は見たことがない、と思えるほど。
どうやら課題のプリントがちょっとひねった算数のクイズ問題みたいなもので、だからみんなこんなに熱心なのかな、とも思ったけど、それにしたってみんな本当に熱心で、学級全体が自然に学び合っているような感触で、自分もそこにいてとても心地よく、そういう心地よい感覚の中、子どもたちの質問を受けていたのだけど……事件はそのあとに起こったのだった。

とつぜん「座りなさい!」という声が聞こえてきて、その心地よい時間は急にストップ。
見ると他の先生が、教室の前の扉のところに立っている。
どうやら教室がうるさい、ということを言いに来たようで、自習にもかかわらず立ち歩いている子がいたことについても、「学習していない証拠」と解釈したようで、「班の形にしているということは、班で話し合うってことでしょう! 他の班のところに聞きに行ってはいけません」とぴしゃり。
こちらとしては、「え?そうなの?」という感じで、いやおそらく子どもたちもそうだったはずで、その先生が去った後、廊下側のある子どもが、そっとドアと窓を全部閉めて、こっちに向かってニコッと笑いかけてきてくれたぐらいだったのだけど……。

自分がここで問題にしたいのは、その先生の不寛容さについてではない。
なぜその先生は、子どもたちの状態を、「学習していない」と解釈したのかだ。
自分とその先生は、きっと同じものを見たはずだ。
しかし、自分は「熱心に学習している」と解釈し、一方その先生は「学習していない」と解釈した。
同じ状態を見たはずなのに、だ。

もちろん、答えなんてはっきりしているのだろう。
自分は「うるさいからといって学習していないと判断することはできない」という考え方をもっている人間であり、また「立ち歩いて友だちに聞くのは自然な行動である」と考えているから、子どもたちが熱心に学習していると解釈したのだろう。
そしてその先生は、「自習時間に人と話したり立ち歩いたりするなんてことは以ての外」という考え方の持ち主であるからこそ、学習していないと解釈したのだろう。
もしかすると、他にもまだ気づいていない判断基準が隠されているのかもしれないが、今のところ思いつくところはこれぐらいだ。
さて、ここでどちらが正しいのか、なんてことを話しても意味がない。
人それぞれ感じ方・考え方は違うのであり、またその背後には、それぞれの歩んできた人生、経験してきたこと、立場等、様々なことが複雑に絡まっているだろうからだ。
とは言え、そういった違いをそのままにしていていいのかな、とも思う。
同じ場所で働いていくのならば、そういった考え方の違いはいったいどこから発生しているのか、ということをしっかりと話し合う機会を作るべきじゃないのかな、と思うのだ(場合によっては、個々の子どもたちのこと以上に)。
そういったことを丹念に話し合っていくことなしに、良い教育を作り出していくことは不可能であると、自分は感じる。
もちろん時間がないのは承知の上だし、そしてそれがかなり実現困難であることも知っての上、なんだけどね。