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【読了】赤木和重『子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ』

子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ

子育てのノロイをほぐしましょう 発達障害の子どもに学ぶ

  • 作者:赤木和重
  • 発売日: 2021/02/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
  赤木和重先生にご献本いただいた本を読み終える。物腰の柔らかい文体の向こうにラジカルな思想が見え隠れする、正に赤木先生をそのまま体現するような一冊だった。
 
 この本、一応は子育てについての本だけど、ここに書かれていることは、その多くが(いやほとんどが?)、「教育」や「学校」に当てはめることができるのではないかと思いながら読み進めていた。つまり、文中に出てくる「子育て」を「教育」に置き換えても、まんま意味が通るのだ。
 
 例えば第一章「あなたの子育て、ノロわれてます!?」に、こんな文章が出てくる。
 しかし、子育てに「こうすればよい」という正解はありません。絶対にありません。親の性格、子どもの性格、家庭の事情、現代社会の状況など無数の要因があるため、「これ!」という正解は出せないのです。
 でも、やっぱり正解がほしい。子どもに幸せになってほしいから。
 すると、「子育て、かくあるべし」という硬直した「正解」がどこからともなく漂ってきて、ノロイという見えないお化けに変身し、子育てを縛り、息苦しいものに変質させます。

 

 この文章の「子育て」の箇所を、「教育」に置き換えるとどうなるだろう。
 

 しかし、教育に「こうすればよい」という正解はありません。絶対にありません。親の性格、子どもの性格、家庭の事情、現代社会の状況など無数の要因があるため、「これ!」という正解は出せないのです。
 でも、やっぱり正解がほしい。子どもに幸せになってほしいから。
 すると、「教育、かくあるべし」という硬直した「正解」がどこからともなく漂ってきて、ノロイという見えないお化けに変身し、教育を縛り、息苦しいものに変質させます。

 
 ああ、心当たりがある。自分もそういうノロイにつきまとわれているし、周りの先生たちだって同じだろう。そして当然、置き換えられるところはここだけではない。例えば第二章の「ちゃんとのノロイ」も、第三章の「やればできるのノロイ」も、全部学校の中にはびこっているノロイなのだ。
 
 赤木先生はこういった数々のノロイの存在を指摘しながら、処方箋を出していくが、そこに共通しているのは「できなくてもいいんじゃないの」「とりあえずくつろいでみたら?」の精神である。その精神を赤木先生は「安楽さ」と表現しているが、なるほどそれは、今の学校に決定的に欠落しているものだろうなと思う。
 
 学校は基本的に、「(できないことを)できるようにさせていく」場所であり、子どもたちを「ちゃんとさせていく」場所だ。しかし、それだけではただただ息苦しい場所が出来上がっていくだけだ。なぜなら、この本に書かれているとおり、幾ら頑張ってもできないことがたくさんあるからだ。幾ら頑張ってもできないことがあるのは、発達障害をもつ子どもたちだけのことではない。
 
 だから先生である私たちは、「できるようになる」という価値を子どもたちに提示しながら、「できるようにならなくてもいい」という正反対の価値を子どもたちに提示する必要があるのだ。この相反する価値観を、同時に子どもたちに提示するというアクロバティックな芸当を私たち教師は子どもたちに示す必要がある。しかしそれは当然ながら大変困難な行為だ。自分自身が「ノロイ」につきまとわれていることもあるだろうし、また他の先生たちや管理職からの視線だってある。保護者からの視線も当然あるだろう。学力テストや授業アンケートなどの存在も大きい。そういう「できるようにさせていく」ことのノロイがたくさんはびこっている中で、単身「できるようにならなくてもいい」という価値観を子どもたちに示し続けるのは、今の時代において非常に困難だ。そういう自分だって、つい先日は本当にくだらないことで子どもたちを叱りつけてしまったぐらいだ。一人で子どもたちの前に立ち続けることは、本当に難しいものなのだ。
 
 しかしこの本を読んでいると、そんなノロイノロイにまつわる苦悩が、ほんの一時的にでも和らいでいくのが分かる。これは正に、赤木先生の柔らかい語り口と温かい眼差しのたまものだ。読者の苦悩や葛藤に寄り添いながら、少しずつノロイをほぐしていく。正にこの本自体が処方箋のような作りになっているのだなと思う。
 
 最後に、少し長くなるが、最終章「子育てのノロイをほどく」から次の文章を紹介したい。
 このようなありとあらゆる能力を、子どもに身につけさせようとして、親も努力します。学習塾はもちろんのこと、早期から英会話を習わせたり、プログラミング教室に通わせたり、水泳教室に通わせたり……。結果、学力や体力を身につけつつ社会性を伸ばすといった、ウルトラC的なことが要求されるようになっています。ほんまに大変です。
 しかし、冷静に考えてみれば、そこまで親ががんばらないといけない社会って、おかしくありません? 必死に子育てをしても、非正規雇用が三割を超える中流崩壊した社会が現実としてあります。しかも、万一、働けなくなったときの生活保護の受給に対しても世界トップクラスの冷たい視線が向けられる社会です。
 そんな社会だからこそ、私たちは、自分たちが意識する以上に、子育てにたくさんの時間やお金をつぎこまざるをえない状況に陥っています。そして無理するからこそ、「教育虐待」という言葉に代表されるように、子どもを、そして親自身を追い詰めてしまうことがあります。社会が「一億総活躍」しなくても、だれでも安心できる設計になっていれば、子育てがこれほど窮屈にはならないはずです。

 

 この文章の「子育て」を「教育」に、「親」を「教師」に置き換えるとどうなるだろう。正に今の教師たちが陥っている困難な状況が明確になるのではないだろうか。現場の教師たちも、正にプライベートな時間を捧げて、ポケットマネーを注ぎ込んで、子どもたちを育てようと必死だ。しかし、なぜそこまでやらないといけないのだろうか。そこまでやらないといけない状況があること自体が問題なのだ。そして、そういった熱心な働き掛け自体が子どもたちを、そして教師自身を追い詰めてしまっているかもしれないのだ。この袋小路のような状況を打破するためにはどうしたらいいのかは分からない。社会全体を変革するなんてことは、当然すぐにはできない。自分のできることは、子どもたちと自分が楽しく「安楽に」過ごせる教室を作るということだろう。今の自分にはそれしかない。まあそれだって、大変困難なことなんだけれども。
 
 全ての親、そして教育者にオススメの一冊だった。