世の中

教育などについて考えたことを書きます

環境調整と一斉授業

特別支援の方法に環境調整というのがある。支援対象の子を直接どうこうというのではなく、周りの環境を調整して、その子が過ごしやすくするということだ。例えばよくあるのは、黒板周りの掲示物を少なくしたり、なくしたりすることなんかがある。まあ、特別支援を勉強したことがある人なら、誰でも知ってるだろう。

 

環境調整は、特別支援の基本だし、自分自身、支援をやっていたときは何度もやってきた。いや、担任をもってからもそうだろう。支援対象の子であってもなくても、その子が過ごしやすいように環境を調整してあげるというのは、授業を行うにしても学級を経営していくにしても基本だ。わざわざ「環境調整しよう」なんてことは考えることもなく、ふだんから取り組んでいるに等しい。ちなみにこういう環境調整を、時と場合によっては「ユニバーサルデザイン」と表現したりする。

 

一方で、実は自分はこういう環境調整という行為に対して、懐疑的な思いを抱いていたりする。例えば先に挙げた、黒板周りの掲示物の件。注意力が散漫な子が、授業に集中できるようにと行われ始めた支援方法で、実際かなりの学校で導入されているものだけど、はたしてこれって本当に効果があるんだろうかと疑問に思うことが多い。むしろ、画一的な授業スタイルや環境を強要するツールとして使われてしまっていることすらあるのだ。

 

もう少し詳しく説明すべきだろう。黒板周りの掲示物を減らす場合、不要な刺激物を取り除いて、授業に集中できるようにするという意図があるのだけど、このとき授業スタイルは、黒板周りの掲示物を取り除くのだから、黒板を用いた一斉授業ということになる。つまり、子どもが板書や先生の話に集中できるように、掲示物を減らしたりなくしたりする、という意図があるのだ。

 

当たり前の話だけど、自分はこのことをとても重要だと思っている。なぜなら、結局のところ、通常授業における支援のあり方は、多くの場合「一斉授業を成り立たせるためのもの」だからだ。

 

多くの場合、通常授業における支援は、一斉授業を対象にしている。子どもが、いかに授業に乗れるか。先生の話を聞き逃さないか、板書をノートに写せるか、授業に集中できるか。そのことを念頭に置いて支援を行う。先の掲示物の件もそうだ。意地悪く言えば、いわゆる「黙れ、座れ、俺の話を聞け」にいかに子どもを適応させるのかをやっているようなものだ。

 

もちろん、掲示物を減らしたりなくしたりすることに効果がないとは言わない。きっとそういった支援が適している場合もあるだろう。とは言え一方で、古典的な一斉授業スタイルをやめるだけで、すぐにその支援自体が不必要になる場合もかなりある。そもそも、黒板を使って、先生が授業の中心になって、全員が同じペースで同じことを学んでいくというスタイルそのものが、支援対象の子どもたちにとっては、ハードルが高すぎるのだ。そして、そう考えれば通常授業における支援が、実は子どもたちへの支援ではなく、一斉授業や授業者に対する支援であることに気づくことができる。

 

いわゆる「ユニバーサルデザイン」と言われるものに対する自分の危惧はそういったところに根差している。要するに、「そんなの一斉授業やめたら、全部解決することなんじゃないの?」ということなのだ。

 

それに加えて、学校によってはそういった「掲示物を減らすこと」が、暗黙の了解になって、各クラスに強制されることがある。無意味なルールがまたひとつ増えてしまうのだ。こうして学校の画一性はより深まってしまい、自由な教育活動はいっそう難しくなってしまう(学校の「息苦しさ」は、こうやって再生産されていく)。

 

とある人は、この掲示物を減らすという支援方法について、非常に権力的であると表現していた。確かに、そういうふうに捉えることもできるだろう。一斉授業は、「今は先生の話を聞く」「今は黒板の字を写す」と、そのときそのときで集中する対象を変えていく必要がある授業スタイルだ。そのときに集中する対象はもちろん教師が指示するものであって、自分の考えを挟む余地は、基本的にはほとんどない。掲示物を外すことは、その指示通りに動けるようにするためのものだ。つまり、そこの中心には常に教師がいて、子どもたちはその周辺にいるしかない。その構造は、確かに権力的であると言うことができるだろう。

 

一方で(ここまで批判してなんだが)、注意力がない子どもたちにとって、掲示物を減らすことは、一斉授業についていくためには非常に重要なのだろう。また、保護者にとっては、担任が一斉授業をしていく限り、掲示物を減らすという支援は、非常に重要なものであり続ける。保護者にとっては、まず第一に、自分の子どもが授業についていけるかどうかが重要なのだ。そのための大切な手段を批判されては我慢ならないだろう。権力的であろうとなかろうと、授業の目的は、授業の内容が理解できること、ついていけること。そうでなければ、自分の子どもは「学校生活のなかひどく自信を失って」、「社会にうまく適応できないかもしれない」。特に、発達障害児の保護者は、勉強熱心であればあるほど、そのような恐れを抱いているのではないだろうか。

 

この問題はとても根深い。自分がここで一斉授業を批判しても、日本の一斉授業中心スタイルを変えることなんて到底できない。そして、一斉授業をやめれば全てが必ず解決するというわけでもない。もちろん日本の教育が、「同じ場所で・全員が違うことを学ぶ」というスタイルになれば、かなりの部分で解決できる問題だろうが、今の段階ですぐに実現できるわけでもない。

 

ということで、この話に結論はない(ただ、現場の先生たちはここらへんのことにもう少し敏感になるべきだろうとは思う)。