世の中

教育などについて考えたことを書きます

授業で積み重ねられる失敗体験

この前の出来事。
とあるクラスの算数の授業で。


ある子が自分の解き方を発表したいと言ってきた。
その子はもともと人と関係を上手く結べない傾向があって、自分の意見を挙手して発表すること自体稀だったので、僕は驚きつつも、言ってごらんと勇気づけの言葉をかけたのだった。
するとその子は挙手して自分の計算の仕方を発表したのだけど……


実を言うとその子の解き方は既に他の子が発表していて、板書もされていたのだった。
「え?」とクラスの子たちがその子のことを見る。
先生も「え?」という表情を浮かべ、「あ、これと一緒だよね」と言って、途中まで板書していたその子の計算方法を、サッと消してしまったのだ。
自分はその様子を見てドキリとした。
それはたぶん、自分がずっとその子の側で解いている過程を見ていたからなのだろう。
彼は自分なりに問題に取り組み、こちらのヒントも手がかりにしながら、自分なりに答えに辿り着くことができた。
そして、勇気を出して(彼は「暇だから」と言っていたけど)自分の考えを発表しようとした。
しかし、彼の考えは「既に出ていた」という理由で、黒板に書かれることはなかった。
わざわざ消されてしまったほどだ。
けっこうその光景は、ショックなものがあった。


するとその子が呟いた。
「ぼくの意見は消された」
彼の気持ちが痛いほどわかった。


もちろんその先生のことを一方的に責めることはできない。
授業の進行上、仕方なかったのだろう。
ふつうは同じ意見は書く必要はないと判断するのが普通だ(ただ、その授業は同じ意見でも言って良いと解釈できるところがあったのも確かなんだけど)。
しかし、彼の隣でその解いていく過程を目にしていた自分にとっては、その行為は理不尽なものに映った。
そして、彼自身もそう感じた。
授業者と授業を受ける者の間に横たわる溝。
そしてきっと自分も、同じようなことはいっぱいやってきている。


板書のもつ「承認」という機能。
一斉授業の限界。
授業でつくり出される失敗体験。
色んなことを示唆する出来事だった。