世の中

教育などについて考えたことを書きます

『アルマジロ』

『アルマジロ』を見た。

 アフガニスタンの最前線、アルマジロ基地に派兵されたデンマークの若い兵士たちに7ヶ月密着撮影を敢行したドキュメンタリー映画。いわゆる「国際平和活動」と呼ばれるものが実際にどのようなものかが分かる内容になっている。


本国デンマークではこの映画を切っ掛けに、平和維持活動について議論が起こったみたいだが、なるほど「国際平和活動」という言葉を前提にすれば、ここに収められた映像は、議論を巻き起こすものかもしれない。しかし、かつての凄惨な「戦争」を思い描きながら見れば、少しばかり肩すかしを食らう内容とも思える。


自分は戦場に行ったことはないのでわからないが、おそらくここに収められているものが、現代における「戦争」の姿なんだろうと思う(もっと激しい場所もあるだろうが)。誰が敵なのかもわからず、どこが戦場なのかもわからない。第一次世界大戦みたいに、1日で数万の兵士が亡くなるということはなく、散発的な戦闘ばかりが続く。もちろんその中で怪我をしたり、命を失ってしまう者もいるが、かつての大きな戦争に比べれば規模は遙かに小さい。その代わり、出口は見えない。

 

兵士たちが派遣に志願した理由は、様々だ。一人は「仲間が欲しかった」と言い、もう一人は「刺激だ」と言う。明らかに彼らは、自己実現の手段としてこの機会を捉えている。とは言え、散発的に起こる戦闘時以外は、彼らの日常は非常に怠惰だ。ポルノ動画を見て笑い転げたり、兵士同士でFPSを楽しんだりする。任務の合間に「退屈で死にそう」と漏らしたりする。その様子は日本の若者と変わらない。


<終わりなき日常>
彼らの姿を見ていて、思い浮かんだのはこの言葉だ。
彼らの日常は、全く、この日本で繰り返される怠惰な日常の延長線上にある。いっそのことフィッシュマンズでもかければ、かつての東京の<終わりなき日常>と見間違える映像ができあがるとも思えるぐらいだ。あるいは脳裏に浮かんだのは、黒沢清の『大いなる幻影』。もしかしたら自分は彼らの姿に、親近感さえ抱いていたかもしれない。


もちろん戦闘時になると、そんな怠惰な日常は一変する。タリバン(らしき者たちからの)突然の発砲。中には負傷し、病院送りになる者もいる。両足を切断することになる者もいる。仲間の負傷や死の知らせは、兵士にとって悲痛なものだ。ある兵士は自分のせいで命を落とした子どものことを思って苦悩する。とは言え戦闘後の彼らは、たいていの部分で高揚感に満ち溢れている。自分たちの戦闘を振り返り、楽しげに話す姿は、まるで試合後のスポーツ選手であるかのようだ。


戦闘後のある場面で、1人の兵士はこう口にする。
「戻ってきて味わう、戦ったという充足感。もう一回やりたい」
それに対し、片方の兵士は「俺は嫌だな」と言う。
そして、戦闘と代わり映えのない日常とのくり返しの中、6ヶ月の任務は終了する。

 

この映画を観て、自分も戦争に行きたいと思う若者は、きっと多いだろう。もちろんこの映画は戦争を賛美しているわけではないし、またこの映画を観た人のなかには、平和維持活動とは名ばかりの内容に憤りを感じる人もいるはずだ。

しかし一方で、彼らの姿が魅力的だと感じる者もいることだろうと思う。
特にFPSを日常的にやりながら育ってきたような若者は、ここで示される「戦争」の姿に拒否反応は示さないだろう。むしろ、はっきりと希望に近いものを見出してもおかしくないと自分は考える。
なぜなら、ここには私たちの日常とそう変わらない<終わりなき日常>があり、そしてなかなか手に入らない<仲間>があり、<生きている実感>があるからだ。
そして、ここ日本でも若者たちがこれから、<自己実現の手段>として戦争に参加することが普通になる日がくるのかもしれない。


戦争の悲惨さだけを強調するだけでは、戦争の悲惨さが薄れたときに、説得力を失う。
もちろん、この映画に収められた戦争であっても十分に悲惨だ。生活を破壊された人々がいて、命を失う人たちがいる。しかし、もしその悲惨さが私たちの身の回りの交通手段やイベントとそんなに変わらないと捉えられればどうなるのか。

毎年たくさんの人たちが自動車事故で悲惨な死を迎えているのだ。
花火大会であっても、悲惨な死は付きまとう。

事実、作品の中で、子どもを巻き込んでしまった兵士に対してかけられる慰めの言葉は、“戦争の死と、他の事故で起こる死は、何も変わらない”という論理に裏付けされたものだった。


このような現実を前に、どのような切り口で子どもたちに戦争のこと、そして平和のことを伝えるべきなのか。
難しいが、この問題はこれからの教育の在り方全体を考えるにあたっても、避けて通れないと思う。