世の中

教育などについて考えたことを書きます

わからないということ

先週の土曜日は八尾にある「学び合いスクール」で行われた第3回大阪PACEに、同じ学校に勤める先生の紹介で参加することができた。

会の冒頭そのことを「同じ学校の先生を誘うという壁を最初から突破してすごい」と指摘され、うーむなるほど確かに!と思う。

実際その壁って厚いからね……。

そういう意味ではとても恵まれた環境にいるとも言えるかもしれない。

参加者の中には、なんと先月のちょんせいこさんのホワイトボード講座で出会った方がいたりして、びっくり。

合計4人のファシリテーターのもと、4時間以上に渡っていろんなアクティビティを体験することとなったのだけど、特に印象的だったのが、最後のPOCHIさんのアクティビティ。

「答えは言っても良いが、仕組みは言ってはいけない」という制約の下、POCHIさんの言うこと・することの仕組みを解き明かしていく。

ネタバレになってしまうので詳しくは書けないけど、あれだけ目の前で起こっていることに対して「わからない」状態になったのは久しぶりだったと思う。

見ているもの・聞こえているものは他の人たちと同じはずなのに、まるで全然違うものを見ている・聞いているような気分。

本当に、何がどうなっているのかさっぱりわからないし、時間が経てば絶つほど、わかっている人たちとの間に溝ができていくような気分。

そして、そんな不安感を抱きながら思ったのが、子どもたちのこと。

 

—ああ、あの子もきっと授業中、こんなぐらいの「わからない」状態に陥っているのか、そしてそれはこんなにも不安なものなのか。

 

とは言え、POCHIさんのアクティビティは「わからない」状態ばかりを教えてくれたわけじゃない。
その対極にある「わかる」状態の気持ちよさも体験させてくれた。

ああ、「わかる」ってこういうことなのね、という感じ。

いやそれだけじゃない。

他の人たちが目の前で「わかった」状態になっていくことの気持ちよさも体験させてくれたのだろうと思う。

最後の人が「わかった」ときの嬉しさといったら、もしかすると自分がわかったときよりも嬉しかったとも言えるかもしれない。

そして、その状態は正に『学び合い』に近いものであったと思う。

自分だけがわかるのではなく、他の人たちみんなが分かる状態を目指すということ。

そして、他の人たちがわかることを自分のことのように喜べるということ。

子どもたちにも伝えたいな、この感触。

『学び合い』の導入としても使えるのかもしれない。

「こんな感じ、いいでしょ?」って。

ちなみに写真はぞうさんのアクティビティ「たまご星人を救え!」で作ったタワー。

自分のチームは見事に成功したけど、相手チームの塔はサグラダ・ファミリアみたいで格好良かって、少し羨ましかった。

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運動会の練習にて

運動会に向けての練習が本格的に始まっている。そのせいで時間割が変則的になってしまい、自分自身毎日かなり立て込んだ状態が続いてしまっているけど、一方でふだんは見られない子どもたちの姿が見られるところもあって面白い。そしてその姿とは、「集団の姿」と言い換えることができるのだろうと思う。

中でも印象的だったのが、3年生の練習での様子だった。そのとき3年生は運動会でやる棒運び(正式名称は違うかも)の練習に初めて取り組んでいた。

ここで言う棒運びというのは、4人が横一列になって、横にした棒をもって走り、帰ってきたら今度は並んでいる人たちの足下をくぐらせて、いちばん後ろまでいったら今度は並んでいる人たちの頭上を通らせて、次の人たちに棒を渡す、という競技のことだ。この、足下をくぐらせて頭上を通らせていくというのが3年生たちには難しかったみたいで、足を引っ掛けてこけてしまう子なんかも続出して、最初はかなり苦戦している様子だった。自分も声をかけたりして、あれこれ働きかけをしていたのだけど、それでも転倒する子や未だにルールを理解していない子などがいて、なかなか大変な感じだった。しかしそのあとしばらくしてふと気づいたら、全体としてとてもスムーズに流れていたのだ。もう本当に最初とは見違えるぐらい。その変化に自分は密かにびっくりしてしまっていたのだけど、同時にその変化の要因もはっきりわかっていた。

変化の要因は、大きく分けて2つある。
ひとつは個々の子どもたちが競技に熟達したということ。やはりそこでは運動神経のいい子や、理解力のある子が真っ先にコツをつかんでいたと感じる。
もうひとつは、良い声かけがいたるところで発生し始めたということ。先ほど述べたコツをつかみ始めた子を中心に、周りに対しての声かけが発生し始めたのだ。特にまだコツをつかめていない子に対する声かけの効果が絶大で「来るよ!」「ジャンプして!」なんて声かけをしてくれたおかげで、最初競技にほとんど参加できていなかった子も最後にはうまく参加できるようになっていた。ちなみに、周りに対する声かけは、こちらがするように促したところは一切ない。

これらの変化とはつまり、「集団の変化」であると自分は考える。ひとつの課題に対してそれぞれの子どもが取り組む中で、たくさんの交流が生まれ、集団として成熟していく。もちろんそこに教師からの働きかけはあるにはあるが、それ以上に子どもたちが相互に行う働きかけの方がはるかに強力で、効率的だったりする。先に示した3年生の例は正にそれで、子どもたちは競技に取り組む中、自分から自分たちの集団のレベルを上げたのだ。運動会の練習はそういうふだんは見られない集団の姿や変化をはっきり目に見える形で示してくれるから面白いと思える。

とは言え一方、自分はこうも思う。なぜふだんはこういう集団の姿や変化があまり見えないのだろうか、と。子どもたちはふだんの授業においても、1人ではなく集団で学習をしているはずだし、そこには必ず集団としての姿や変化が見られるはずだ。しかし、ふだんの授業においてそのような姿がはっきり示されることは少ない。ほとんどの場合見えないし、むしろ見えないように仕向けられていると感じられるぐらいだ。そしてふだんからここで例示した運動会の練習にも近い、集団の姿がはっきり見られる学習活動が行われれば、子どもたちはどれだけ変化していくのだろうかと思うのだ(もちろんそこにはかなりの苦労が伴う部分もあるだろうが)。

子どもたちは本来、学び合う力を持っているものであり、またどんな学習であっても(たとえ個別学習であっても)、人との関係性の中で行われるものである。だからこそ必ず、集団としての成熟を目指さなければならない。では、どんな学習活動がふさわしいのだろうか。いっそう考えていかないといけない。

子どもたちに解決させること

先週の出来事。
あるクラスで給食を食べることになって、子どもたちが配膳している姿を眺めていると、ふたりの男子が目の前で何やらもめ始めた。
訊くと、どうもストローをどちらが配るのかでもめているらしい。
(そんなのふたりで半分こして配れば良いじゃないか……)となかば呆れつつ、しかしそこで口を出してしまったら何の力も育めないので、とりあえず「どちらともが納得できるように話し合って決めなさい」と声をかけて待つことに。
どういう解決の仕方を見つけるのかな〜と眺めていると、どうやらジャンケンで決める方向に進み始めている。
(ジャンケンか……安易だな〜)と思ったが、ふたりの選択を尊重したいと思って、もう少し見守ることに。
すると「三回勝負な」とジャンケンが始まるが、今度はルールでもめ始める。
どうやら「三回勝負」を「先に三回勝った方が勝ち」か「三回やって多く勝った方が勝ち」かどちらで解釈するのかでもめているようだった。
これはもう、ふたりで話し合ってもらうしかないな、と思ってもう少し見守る。
結局、勝った方がストローを配って、負けた方が牛乳を配るという結論に達したみたいで、そんなにもめてその結論?という感じだったが、彼らにとってはその過程こそが大切だったんだろう。
過程を大切にしたいからこそ、結果だけを見つめるということ。
そして、教師の仕事は解決手段を与えることではなく、待ち続けることであるということ。
そういうことを再確認できた出来事だった。

突然の雨

今日の3時間目の終わり、理科の授業で使う花を学習園に取りに行くことになって、子どもたちと一緒に外に出ようとしたら、いつの間にか強い雨が降っていて、「あれぇ!」と驚くことに。
どうしたものかと校舎の出口から運動場を眺めていたら、先に行った子どもたちは当たり前のように傘もささず、まるで雨など降っていないかのような素振りで運動場を横切っていく。
かなりの雨で、遠目から見ても服がビチョビチョになっていることがはっきり分かるのに、誰も気にする様子など見せない。
何とも不思議な光景であると同時に、雨などものともせず振る舞う子どもたちの姿に頼もしさを感じてしまう部分も。
しばらくすると、何人かの子どもがこちらにやってきて、先生も行こうよと誘ってきたのだけど、さすがにそのあとの業務に差し支えが発生しそうなので断ることに。
後先のこと考えて行動するなんてつまんない大人になったな、なんて思いながら、せめてもと思って持っていたカメラで写真を撮った。
それがこの写真。

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ホワイトボードと怖い話

今日は1・3・6年生の登校日。

昨日に引き続き、ホワイトボード片手に色んな教室に入ってあれこれ夏休みのことを訊ねたり、平仮名の練習をしてみたり。

やっぱりホワイトボードを持っていると、子どもたちの反応が良い。
話の過程が見えるから、話題に入ってきやすいんだろうね。

これからはホワイトボードおじさんとして地位を確立しても良いかも知れない。

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放課後、1時間ぐらいしてから職員室をコンコンとノックする子が。

用を聞くと、「帽子を教室に忘れたから、取りに行っても良いですか」と言うので、もちろん「いいよ」と答えたのだけど、そのあとすぐにまた戻ってきて「怖いからついてきてもらって良いですか」なんて言うから面白い。

「いいよ」と二人で教室に向かうのだけど、今度は「先生、怖い話して」と言い始めたり。

なんでやねん、と思いつつ、2階の西階段のところにある大鏡をネタにした話をひとつしてみる。

「この前の話なんやけど、先生、夜遅くまで学校に残ってて、廊下を歩いててん。そしたら、2階の西階段の前にある鏡の前に、髪の長い女の人の姿が見えてな、誰かな、と思って近づいたら姿が見えなくなって。あれ、おかしいなあって思って鏡を見たら、先生の後ろの階段のところに女の人の姿が見えて……」(あとは秘密)

無事に帽子は見つかったけど、まだ怖い話が聞きたいというので、今度は一緒に校門に向かいながら、もうひとつ、絶対に掛けてはいけない電話番号の話をする。

「世の中にはね、絶対に掛けてはいけない電話番号があるねん。その電話番号にかけてしまったら、あの世と繋がってしまうから、絶対に掛けたらあかんねんな。けどむかし、この小学校の3年生の男の子が掛けてしまってん。その子は公園のトイレに書いてあったその電話番号を面白半分で掛けてしまってな……」(あとは秘密)

どちらもその場でテキトーに考えたものだけど、それなりに楽しんでくれたようで、何よりだった。

宿泊活動での子どもたちの姿

二十数年ぶりに出かけた自然学舎。
まさかこの歳になって再び出かけることになるだなんて、奇妙な人生。
三日間べったりと、いつもと違う環境のなか子どもたちに付き添って過ごしてみると、ふだんは気付かないようなところが沢山見えて、とても面白かった。

いちばん感じたのは、子どもたちがどんな先生を望んでいるかということ。
やっぱり自分たちのやりたいことを認めてくれる先生がいちばん良いんだよね。
一部の子どもたちにとってはどうやら自分はそういうタイプの先生らしく、実際「やっぱり豊田先生いいなー」なんて言葉が聞こえてきたり。
他の先生からすれば「甘い」「ルーズ」と映ることもあるだろうから手放しで喜ぶことはできないのだけど、それでも自分の指導や態度が子どもたちの支持を得ているところはあるのだから、そこは真に受けてもいいのかもしれない。
少なくとも手がかりになるとは感じる。

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自分は基本的に人の選択や考えに口を出すのが嫌いな人間で、相手の考えをとにかく尊重したいという姿勢で常に生きている。
そういう態度はもしかすると他の人からすれば奥ゆかしいだとか、先生として指導力がないだとかそういうふうに映ることがあるかもしれないし、実際改善しなければいけない点は多々あるのだけど、やはり自分の基本姿勢は「尊重」なんだろうと思う。
逆に言えばそれは自分自身、やり方に口出しされるのがたまらなく嫌な人間だから、というところもあるんだろう。
自分はプロセス重視な人間だし、自分の好きな音楽だってたぶん全部プロセス重視で作られている。
だからこそ人のプロセスには口出ししたくない。
『課題はこちらが設定する、しかし方法は問わない』というのが人の能力を最大限発揮できる最高の方法だと考えているし、いずれはその考えに沿って授業も学級もデザインしたいと考えている(怒られるかもしれない、否定されるかもしれないという恐れほど人の能力を失わせるものはない)。

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閑話休題、自然学舎で発見したのは、子どもたちの素の姿だったのかもしれない。
ふだんは学校という捉え所のない、責任の所在を曖昧にされた場所にいるせいでいまいち見えない子どもたちの素の姿が、丸っきり違う場所に移動したおかげでよく見えたと思える。
思い出したのは、岡田淳の幾つかの作品。
岡田淳の作品の多くは、先生(あるいは大人)がいない場所で、子どもたち同士が協力して様々な問題を解決していくという形態をとっているけど、自然学舎の子どもたちはまさしくそれに近い状態で、そしてむしろ子どもたちはそういう状況にいるときこそ、ふだんは見せない有能さを発揮できたりする。
自分はそんな子どもたちにいちいち感心しっぱなしで、見とれてばっかりいたのだけど、さて、明日から子どもたちはどんな姿を見せてくれるんだろう。
ちょっとは変わってて欲しいな。

 

二分間の冒険 (偕成社文庫)

二分間の冒険 (偕成社文庫)

 

 

美しいものを躊躇せずに堪能する勇気について

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ふだんあまり歌詞をまともに聴かない自分のような人間であっても、少しぐらいは心に残る歌詞というのが存在する。

自分にとってそのひとつが、スッパマイクロパンチョップの「シェイク」だ。

というより、この曲が収められたアルバム『カエルに会えてよかった』自体、自分にとっては宝物みたいな歌詞がたくさん収められたものだったりするのだけど、特に、その中でもよく思い出すのがこの「シェイク」だったりする。

 

こだわりが体からスッとひとりでに抜けるまで

立ち止まって観察することに躊躇しないあの娘

めんどくささ引き受ける君はサイコーに潔い

コスチュームを新しくしたところで何の変わりもない

 

この歌詞は自分の1日の生活のなか、必ずどこかで脳内で響き渡るのだけど、その理由はたぶん、この歌詞に描かれている女の子のような姿に憧れているからだと思う。

 

自分はこう見えても臆病な性格で、常に他人からの目を気にして生きているところがある。

その程度が他の人たちと比べてどうなのかはわからないけれど、とにかく自分であまりそういった部分を気に入っていない。

人一倍こだわりがあるはずなのに、他人の目を気にしたり、効率性だとかを優先してしまって、自分のこだわりや興味を優先できないことが多い。

そして、そんな自分が気に入らず、訳のわからない意地を張って、自分のこだわりや興味をないがしろにしていないだろうか、そんな自問を繰り返しながら日々を生きている。

 

そんなとき、頭の中を流れるのは、この歌詞だ。

ああ自分はこの歌詞に出てくる女の子のように、面倒くささを潔く引き受けて、自分の興味や関心を優先できているのかなって思ってしまうのだ。

 

そしてそのとき、頭の中で再生される光景がひとつある。

それは大学生の頃、電車の中で起こった出来事だ。

 

その日、大学に向かう僕は、いつものように特急列車の補助席で、音楽を聴きながら本を読んでいた。

窓からは溢れんばかりの光が差し込んでいて、床にはドアの影が広がっていた。

それは、美しいながらもあくまで日常の光景に過ぎず、僕は特に気にもとめず本に集中していた。

と、そのとき、ふと自分の目にふだんとは違う光景が目に入った。

床に映った影の中に、ふだんは見慣れないかたちの影が1つ浮かんでいて、それがパタパタと奇妙な動きを見せていたのだ。

その様子は、なぜかわからないが、とても美しいと思えるもので、ドキリとしながら僕はその正体を確かめようと、ドアの方に視線を動かした。

正体はすぐにわかった。

それは、ドアガラスにへばりついた、1匹の蛾がつくり出した影だった。

蛾は、外に出たいのか、窓ガラスに向かってパタパタと羽根を動かして、その様子が影となって床に映っていた。

ああなるほど、納得した自分は再度、床の上の影に視線を動かしたのだけど、そのとき、もうひとつびっくりすることが見つかった。

それは、前の補助席に座っている女性だった。

たぶん彼女も自分と同じタイミングで床の上の影に気づき、そして同じタイミングでドアガラスの方に目をやったのだと思う。

そこまでは同じ。

だけど、彼女が自分と違うのが、そのあとすぐにかばんから携帯を取り出して、影の写真を撮ったことだった。

僕は彼女のその行動にびっくりしてしまったのだ。

 

実を言うと僕は床に映った蛾の影を見つけたとき、とても美しいと思うと同時に、それを写真に撮りたいと思っていた。

そして、ドアガラスの方を見て、再度床に視線を戻したとき、もうその気持ちは「めんどうくさい」という気持ちによってなかったことにされていたのだ。

だからだと思う、自分が彼女の行動にびっくりしてしまったのは。

自分がなかったことにした行動を、すっと当たり前のように、自然にやってのけた女性の行動に、自分は心底驚いた。

そしてその行動の潔さや、自分の美しいという気持ちを大切にする彼女の自然な振る舞いを、自分は床の上の影よりも美しいと思えたのだ。

 

シェイクの歌詞を思い出すとき、自分は必ずこのときの光景を思い出す。

そして、そのときの女性の行動に、少しでも近づけたかな、と思うのだ。