世の中

教育などについて考えたことを書きます

クラスと学校が幸せになる『学び合い』入門 読了

『クラスと学校が幸せになる『学び合い』入門』読了。
読んでいて途中から、これはホントに変わった本だなと思い始めた。
何が変わってるって、半分ぐらいが『学び合い』をいかに周囲の人に理解してもらうか、ということに割かれているところだ。
『学び合い』の内容以上に、『学び合い』をする上で発生するだろう軋轢をどう解決していくのか、ということに重点が置かれている本、というのが自分の印象。
いまの学校事情を「病んでいる」とまで書いているところがあって、そこは思わず笑ってしまった。
こんなことが書いてある教育関係の本は、初めて読んだ気がする。
とは言え実際、学校という組織の中で人と違うことをやっていくためには、職員室内の政治についてはかなり気を払わなければならないのも事実で、そういうことも含めて書いてくれるのは若い先生にとってとても意味があると思える。
あと、業績の低い独善的専制型管理職の特徴が、そのまま、一般的な「できる教師」に当てはまってしまうという記述もとても面白かった。
あとがきでは、『学び合い』の先にある新たな学校像が妄想として描かれているけど、実際、これからの学校の役割はこういう方向に進むことになるのだろう。
「教室に机を置き、そこにお茶とお菓子を置く」ことがまだ非常識なのがネック、と書かれていたが、自分も以前からそういう教室を作りたいと思っていたから(子どもだってティータイムぐらい欲しいでしょ)、自分からしたら納得、である。
ということで、良い本だった。

 

SSTは意味がない

SSTは意味がない、という話。

昨日、5年生が体育でマラソンをしているので、外に出てみると、ちょうど自分が担当している男子が走っているところだった。
せっかくだから勇気づけるためにも、伴走することに。
たった3周ではあるものの、2人で仲良く走ることができたと思う。
ちなみにそのマラソンは、2人一組になって、相手の走ったタイムを周ごとに記録するというシステムをとっていて、その子のタイムもクラスの女子が記録してくれていた。
走り終わって、役割交代。
今度は男子が女子のタイムを記録する番になって、いちおうしっかり記録はできたのだけど……。
そのあとの出来事。
走り終わった女子がこちらに来て、用紙を受け取ろうとした手を伸ばした瞬間、いきなり男子が記録用紙を乱暴に投げつけて渡したのだ。
咄嗟に「こら!なんで投げるの」と言って「ごめんね」と男子の代わりに謝る自分。
女子はきっと慣れているのだろう、コクリと頷いて、用紙を手にして歩いて行ったのだった。

実を言うとそういう場面は男児を巡ってはよくあることで、「こら!」という言葉も怒って言ったわけでもなく、女子の気持ちを汲み取っての言葉であって、「先生の顔に免じて許してあげて」という意味だったりする。
そして、男児のその行動が、対人的な不安に起因していることは明らかであり、だから叱っても全然意味がないということはわかりきったことだった。
「ああいうときはありがとうと言って渡すのが良いんだよ。不安だからできないの?」と聞くと、「うん」とうなずく男児。
そしてもう、そのことについては深く追求しないことにした。

発達障害等を原因に、対人的なところで問題を抱えている児童は多い。
しかし多くの場合、その子に対しての指導というのは、ほとんど効果がない。
ほとんどの子は、知識としてのソーシャルスキルは身に付けているものだ。
しかし、実際にそのスキルを発動するには壁がある。
その壁は、ひと言で言えば「不安」だ。
否定されるかもしれない、という不安。
その不安はきっと、学校生活のなかで積もりに積もったものなのだろう。
だからそう簡単に除去することはできない。
だけど、その不安がその子と他者との間でできあがったものならば、その子に対しての指導だけで全てが解決されるわけはないのだ。
最も必要とされるのは、その子と他者との間でできる「安心」という果実だ。
むしろその子に対する毅然とした指導は、他の児童との間に溝を作り、不安はいっそう増大する。
そして事態はいっそう悪い方向に向かってしまう。

多くの問題行動の根本にあるのは不安だ。
それは個人の問題には絶対にできない。
そこにいる人たち全員で作り出すほかない。
だけど今の立場では、自分はそんな安心を作り出すことはできない。
ごめんねって、謝ることしかできない。
そんな状況がとても歯がゆい。

疎外

昨日は校内で研究授業が行われた。
6年生の国語で、単元は『やまなし』。
『やまなし』は大好きだし、その先生の授業は考えてみればほとんど見たことがないので、足を運ぶことにしたのだけど、予想以上の授業内容で、驚かされた。
主発問は、“宮沢賢治はなぜ「やまなし」を題名にしたのか”。
セオリー通りだが、それまでの授業展開が綿密だったのだろう、子どもたちはグループワークを通じて次々と鋭い意見を出していて、唸らされること数回。
自分はこんな授業絶対にできないだろうなあと思うばかりだった。


しかしその一方、頭に浮かんだのは、自分がよく知っている支援の子どもたちのことだった。
彼らはこの授業を、クラスのみんなとは一緒に受けることはできない。
その理由は子どもによって違うが、とりあえず彼らは今のところは、同じ授業を受けることはできないのだ。
その疎外感っていったいどのぐらいなんだろうか。
そして、彼らの抱える問題の多くは、実のところその疎外感から発生していたりする。
そして、その疎外感に起因する問題は、その子の一生に付きまとっていくはずなのだ。


学校が、そこにいるすべての子どもたちの幸せを保障できるときはくるんだろうか。
結局、すべての試みはそこに繋がってくるのだと思う。

取り出し授業

支援対象の児童の中には、教室での授業についていけないという理由で、特定の科目で取り出し授業が行われる子がいる。

自分もそういった子たちに対して少人数制指導を行ったりしているが、しかし、同時になぜこの子たちはみんなとは違う場所で授業を受けなければならないのだろうかと考えてしまう。

そもそも能力の差は、絶対にどんな場所でも発生してしまうものだ。

将来どこで働こうと、能力の差は多かれ少なかれ発生するし、また場面や分野によって人それぞれの能力は変化するものだ。

つまり、人は能力の差を超えた協同のあり方をまず学ぶ必要があるということになる。

しかし、自分が目にしている支援のあり方はそれとは全く逆だ。

能力がないからと言って、違う場所に行かせる。

もちろん、特別な配慮の内容が、通常学級で行えないようなものならば仕方がない。

しかし単に勉強についていけないというだけで、別室で学ばせるというのは全くのところ理解できない。

そんなことをやったって、勉強ができるようになるわけではないのに(むしろ徹底的に自尊心が失われるだけだ)。

能力の差は絶対にどんな場所でも存在するし、未来永劫それは存在する。

しかし、いま人間が求めているのは、能力の差によって左右されない「幸せ」のかたちのはずだ。

だからこそ、未来を作っているはずの教室は、能力の差なんて全く問題にならない場所であって欲しい。

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子どもたちの状態に対しての解釈の違い

先日の出来事。

とあるクラスの前を通ったら、担任の先生がいない中、何やら子どもたちが席を班の形にして、プリント学習に取り組んでいる。
中には立ち歩いて、他の席の子に話しかけている子もいたりしたのだけど、その雰囲気が何かとても良い感じだったので、気になって教室の中に入ってみることに。
どうやら担任の先生が出張らしく、自習に取り組んでいるとのことで、早速「先生これってどういうこと?」と聞いてくる子が何人か。
「熱心だな」と思いながら教えていたのだけど、その最中、あることに気づく。
遊んでいる子がひとりもいないのだ。
教室にいる子どもたちが全員、ひとり残らず熱心に自分のプリントに取り組んでいる。
ときどき立ち歩いたりする子も見られたが、それもわからないところを人に聞きたいがためであって、けっしてサボっているわけではない。
今まで色んな自習の場面を見てきたけど、こんなに熱心な状態は見たことがない、と思えるほど。
どうやら課題のプリントがちょっとひねった算数のクイズ問題みたいなもので、だからみんなこんなに熱心なのかな、とも思ったけど、それにしたってみんな本当に熱心で、学級全体が自然に学び合っているような感触で、自分もそこにいてとても心地よく、そういう心地よい感覚の中、子どもたちの質問を受けていたのだけど……事件はそのあとに起こったのだった。

とつぜん「座りなさい!」という声が聞こえてきて、その心地よい時間は急にストップ。
見ると他の先生が、教室の前の扉のところに立っている。
どうやら教室がうるさい、ということを言いに来たようで、自習にもかかわらず立ち歩いている子がいたことについても、「学習していない証拠」と解釈したようで、「班の形にしているということは、班で話し合うってことでしょう! 他の班のところに聞きに行ってはいけません」とぴしゃり。
こちらとしては、「え?そうなの?」という感じで、いやおそらく子どもたちもそうだったはずで、その先生が去った後、廊下側のある子どもが、そっとドアと窓を全部閉めて、こっちに向かってニコッと笑いかけてきてくれたぐらいだったのだけど……。

自分がここで問題にしたいのは、その先生の不寛容さについてではない。
なぜその先生は、子どもたちの状態を、「学習していない」と解釈したのかだ。
自分とその先生は、きっと同じものを見たはずだ。
しかし、自分は「熱心に学習している」と解釈し、一方その先生は「学習していない」と解釈した。
同じ状態を見たはずなのに、だ。

もちろん、答えなんてはっきりしているのだろう。
自分は「うるさいからといって学習していないと判断することはできない」という考え方をもっている人間であり、また「立ち歩いて友だちに聞くのは自然な行動である」と考えているから、子どもたちが熱心に学習していると解釈したのだろう。
そしてその先生は、「自習時間に人と話したり立ち歩いたりするなんてことは以ての外」という考え方の持ち主であるからこそ、学習していないと解釈したのだろう。
もしかすると、他にもまだ気づいていない判断基準が隠されているのかもしれないが、今のところ思いつくところはこれぐらいだ。
さて、ここでどちらが正しいのか、なんてことを話しても意味がない。
人それぞれ感じ方・考え方は違うのであり、またその背後には、それぞれの歩んできた人生、経験してきたこと、立場等、様々なことが複雑に絡まっているだろうからだ。
とは言え、そういった違いをそのままにしていていいのかな、とも思う。
同じ場所で働いていくのならば、そういった考え方の違いはいったいどこから発生しているのか、ということをしっかりと話し合う機会を作るべきじゃないのかな、と思うのだ(場合によっては、個々の子どもたちのこと以上に)。
そういったことを丹念に話し合っていくことなしに、良い教育を作り出していくことは不可能であると、自分は感じる。
もちろん時間がないのは承知の上だし、そしてそれがかなり実現困難であることも知っての上、なんだけどね。

『せんせいのつくり方』を読んで

せんせいのつくり方 “これでいいのかな

せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ

 

 10月9日読了。

岩瀬先生の新刊。
この本のキーワードは「違和感」なんだろうと思う。

学校の先生は子どもたちと生活するのが仕事なようなものだ。
教科だけに限らず、生活にまつわる様々なことを指導する。
そこで基準とされるのは、世の中の常識や、自分の受けたしつけや教育、学校の方針、法律、そして教師自身の願い……。
教師はそういった価値観を組み合わせながら、子どもたちを納得させ、導いていく。
逆に、そこで提示した価値観が、多くの子どもから同意を得られなかった場合、多様な子どもたちが集まる場所である教室を、上手く運営していくことができなくなってしまう。
それゆえ、教師は法や常識を知っていなければならないし、また自分自身の価値観も持ち合わせていなければならない。
そしてそれらを子どもたちにわかる言葉で説明できなくてはならない。
これは教師に要求される能力のひとつだと感じる。

しかし、その行為がいつも上手くいくとは限らない。
自分の考えが子どもたちに受け容れられないことだってある。
学校は、たくさんの人たちが集まって成り立っている場所。
不本意ながらも、自分のものではない考えに沿って指導しなければならないこともある。
自分の価値観であるつもりが、実は他人の価値観を借りていただけのことだってある。
子どもたちを導いているつもりが、ただ思い通りに動かしているだけのことだってある。
もっともらしいことを言って、実は自分の体面を保持したいだけのこともある。上手くいっているように見えるときだって同じだ。

表面的には上手くいっている、しかしもしかするとクラスの誰かはそのやり方で苦しんでいるのかもしれない。
その子の個性ややりたいことを圧殺してしまっているのかもしれない。
もちろん教室は多種多様な人たちが集まる場所。
必ずしもそこにいる全員の欲求を満たすことはできないかもしれない。
しかし、自分の「選択」が、もしかすると誰かの大切な世界を踏みにじっている可能性だって、あり得るかもしれない。人の心は目に見えない。
もちろんそれらは表情や文字などによって目に見えるものに変換されることもあるだろう。
しかし、たとえ目に見えたからといって、それが本当にそのまま、見た目通りに解釈していいものなのか。
本人でさえ気づかない感情だってあり得るのだから、まるで信用ならない。

大切なのは、引っかかりを感じること。
「違和感」をしっかり捉えること。
そして、その感情がなぜ起こったのか、丹念に考えていくこと。
そうすれば、その場ではわからないかもしれないことも、あるときスッとわかることだってあり得るのだ。
これは、教師を続けるに当たって欠かすことのできない過程だと自分は考えている。

この本は、正にその「違和感」から書かれたものだ。
自分は教師として、これでいいのだろうか。
自分のクラスは、これでいいのだろうか。
学校とは、これでいいのだろうか。
もっと他のかたちは、ないのだろうか。
そういったことを探っていく試み。
解は示されていないがしかし、姿勢は示されているだろう。
そしてその姿勢は、自分を十分に勇気づけてくれるものだったと感じる。

電子オルガンの音色

この前の出来事。

休み時間に支援教室に入ったら、教室中に凄まじいばかりの重低音がこだましている。
え、何の音?って思って教室の中を見回すと、ひとりの、ふだんは音楽とは関係なさそうな男子が電子オルガンの前で鍵盤を押さえていた。

え、電子オルガンってこんな太くて低い音出せたっけ?と思って見てみると、やっぱりそれは電子オルガンの音で、何をどうやったのかはよくわからないけど、とにかく何重にも折り重なった音がさらに大きな倍音となって教室中に響いているような感じなのだ。

オルガンの前に取り付けられたスピーカーも震えまくりで、え、え、これはいったい幾つの音が重なってるんだ?電子オルガンの同時発音数って幾つなんだ?スゲー!という感じで興奮してしまって。

おまけにその子、その音でチャイムの「キン・コン・カン・コーン」を弾き始めたんだけど、最後の「コーン」を微妙に違う音程にして、こっちに向かってニヤッというのを数回。

これがまた非常に音楽的で、挑戦的で、いやーもうたまらん、何を狙ってるのかよくわからんが、面白いので、こいつと一緒に音遊びするー!と近くに行ったところで本物のチャイムが鳴って終了。

結局未だに音のことと、その子の音楽的才能については謎なままである。

以前から思っていたけど小学校に置いてある古い電子オルガンってホントにビンテージな音で、音を知ってる人なら皆、聴いた瞬間「たまらんー」ってなるような感じなんだけど、あれっていったい何なんだろう?

まさかあんな最高峰のシンセサウンドで小学校生活が彩られていただなんて全く今まで気づいていなかったな。ちなみにその場には他にも数人の先生がいたのだけど、その先生たちからは彼の音は不評だった。

新しい音楽は常に遊び心から生まれるというのに……。

(まあ基本的に学校は新しい音楽を作る場所ではないので仕方がないのだけどね)

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