世の中

教育などについて考えたことを書きます

『通話』ロベルト・ボラーニョ

 1953年、チリ・サンティアゴに生まれの作家、ロベルト・ボラーニョの短編集。分厚いので有名な『2666』の作者でもある。残念ながら2003年に50歳の若さで亡くなっており、その際にはウディ・アレンタランティーノボルヘスロートレアモンを合わせたような奇才、と表されたという。チラホラその名前を耳にしていたので、試しに読んでみたのだが、これがまた奇妙な作品ばかりだった。

 

 この短編集は3部構成になっていて、全て合わせると14の短編が収められているのだが、全編を通して際立つのは過剰さである。何が過剰かというと、まずは登場人物たちに対する描写だ。作者は作品中、次から次へと登場人物たちの性癖や過去や住んでいる場所や仕事や恋人や家族や行動やその人物を示す情報を止めどなく、洗いざらい書き連ねていく。なかには作品に何の関係があるのかわからないようなものも多く混じっているのだが、とは言え、それらが例えば伏線になっていたり、巧みにプロットを構成していたりということはほとんどない。現実のごとく、ただ単に独立して、作品の中に点在しているかのような印象を与える。

 

 そして、そこから浮かび上がってくる登場人物たちの様子は、主人公も含め、とにかくまともではない。彼らは作家志望の若者や、学校をサボりがちな少年、ギャング、あるいはポルノ女優など多岐に渡るのだが、皆、一様にしてただひたすらに破滅へとひた走っているように思える。少なくとも、成功などとは縁遠い人生を歩んでいるのは確実だろう。実際、中には殺されたり、自死してしまう者もいる。

 彼らは作品中、主人公を中心にして入れ替わり立ち替わり現れるのだが、そこに必然性というものはあまり感じられない。出会い、旅に出たくなったから旅に出て、そこでまた出会い、しかし帰りたくなったので帰り、再開し、会いたくなったのでまた戻り、恋をして、失恋をしたり、泣き始めたり、愛し合ったり、愛は突然冷めたりする、という繰り返しだったりする。

 すなわち、彼らの人生もまた非常に過剰であり、また同時に取り留めのない怠惰な日々の連続であったりするのだが、これもまた現実をそのまま描いただけのようにも思える。

 

 全ての作品を覆うのは不吉な予感だ。それは死や暴力というはっきりとした形として表れることもあるし、またはっきりとした形で示されないこともある。繰り返し出てくる電話というモチーフもまた、そのひとつだろう。現実という荒波の中、人の声を求めてかけられる電話は、繋がるときもあれば、繋がらないときもある。ときには受話器の向こうにいる相手を間違い続けることもある。

 

 ただただ背後に消えていくしかない怠惰で不穏な私たちの日々を、そのままの取り留めのなさで書きとめたような作品集だった。

 

通話 (EXLIBRIS)

通話 (EXLIBRIS)