世の中

教育などについて考えたことを書きます

音楽を聴くということ(壊れかけたハードディスクから学んだこと)

以前、音楽データの入ったハードディスクが壊れかけたことがある。最終的には一部のデータを除いて救出することができたが、20年近くかけて集めてきた音楽データの全てがある日いきなり聴けなくなり、消えたかもしれないというような可能性に向き合うのはかなり辛いものだった。それは、単にデータが消えてしまったということ以上に、まるで自分がそれまで音楽に注ぎ込んできた時間全てが消去されてしまったかのような感覚だった。その喪失感は、初めて経験する類のものだった。

 

音楽というのは、時間芸術である。スタート地点とゴール地点が明確に設定されていて、聴者は必ずスタート地点からゴールに向かって聴いていかなければならない。例えば60分のアルバムを倍速で聴いてもそれは聴いたことにはならないし、後ろから逆回しで聴いても同じことだ。60分のアルバムを聴くためには必ず60分の時間が必要なわけで、さらに2度・3度と聴いていくならば、2倍・3倍の時間が必要になる。これは、どれだけテクノロジーが高度に発達しても変わらないことである。

 

音楽は、特に録音作品については、いったん録音物と仕上がったものであるがゆえ、不動・不変といったイメージが付きまとうが、例えば2度・3度繰り返し聴いていくことによって耳に届く印象が変わったり、あるいは単なるノイズでしかなかったものが音楽として成立し始めたりすることからわかるように、音楽とは実のところ、聴取という時間の流れにおいて変化していくものである。繰り返し聴取していくなか、盤の上に固定された音楽たちは実は刻々と変化しており、その変化は私たちの聴覚がもたらしている。もちろん、音楽そのものではなく聴者の聴覚が変化しているだけであるということもできるかもしれないが、私たちが結局のところ自身の感覚を通じてでしか音楽と対峙することができないことを考えれば、音楽はやはり、私たちの耳の向こうでどんどんとその形を変容させているということができる。

 

音楽を聴くという行為は実のところ、音と聴者の相互作用の上で成り立っている。私たちは音楽を聴くという行為を通じて自身の聴覚を変化させるし、また変化した聴覚は、それまでの音楽を変化させる。これはもちろん、記録された音楽であっても同じことだ。そういった意味で、音楽を聴くことは受動的な行為ではないし、むしろ能動的なものであるということができる。そして音楽を聴くという行為は、私たちそれぞれの感覚(聴覚)に大きく依存しているという点で非常に個性的・個人的なものであり、音楽を聴くという行為はその個性に立脚したものである。私のもっているAというアルバムと、あなたのもっているAというアルバムは、実のところその内容は全く違うのだ。

 

私たちは音楽を聴きながら、自身の聴覚を変化させ、その変化によって音楽を変化させる。そのようなごく個人的な相互作用を日々の中、音楽という時間軸の上で繰り返し行なっていくことが、音楽を聴くという行為であると言い換えることもできるだろう。つまりは、そのような相互作用のプロセス自体が、音楽を聴くという行為なのである。そして、そのようなプロセスを通じて、私たちは音楽を、本当の意味で所有していく。

 

話を戻そう。ハードディスクが壊れかけ、それまで集めてきた音楽データが全く聴けなくなった私は、かつてないほどの喪失感に襲われたわけだが、いったいそこで私は「何を失った」と思ったのだろうか。音楽データは確かに失われた。そのダメージは本当に大きい。しかし、それ以上に私は、まるで自分のそれまでの音楽に費やしてきた時間そのものが全て失われたと感じられたのだ。音楽を失うことによって、私の経験してきた相互作用のプロセス自体も全て失われたと思えたのだろう。

 

いや、正確に言えば、そのようなことにすぐに思い至ったわけではない(自分の音楽データが全て消えたかもしれないという事実を前にそんなに冷静にあれこれ考えられる人がいたらすごい)。その後、結局あの手この手で何とか大半のデータを救出することができたのだが、その記念にと、最も思い出深いアルバムである竹村延和『こどもと魔法』を久しぶりに聴いたときに、ふとそういったことに思い至ったのだ。久しぶりに耳に届いた『こどもと魔法』は、それまでに何度も聴いてきた『こどもと魔法』と全く変わらなかった。そこには「私」との相互作用の果てに変容した音があり、感情があり、そして「私」との相互作用のプロセスがあった。それは最初から消えてなどなく、私の内側にしっかりと残されていたのだ。

 

音楽を聴くという行為は、相互作用のプロセスであると同時に、そのプロセスを自身の内側に記録する行為であるということができる。そういった意味で言うならば、人間こそが最も優れた録音物であるのかもしれない。音楽を失いかけて、私は初めてそういったことに気づくことができた。とは言え、もう2度とあんな思いはしたくないので、バックアップは今後もしっかりやっていくつもりである。

こどもと魔法

こどもと魔法