人生はアドベンチャーであるということ
ある人がこんなエピソードを話してくれた。
このあいだのこと、Amazonで本を買ったその人は、受け取りをコンビニにしたのだけど、受け取り番号を忘れたとかで、結局コンビニと家との間を2往復にすることになったのだと。
普通はイライラしてしまいがちなシチュエーション、だけどその人は、「この主役は何やってんだ」と面白くなって、跳ねながら歩いたらしい。
そして、こんなことに時間を使える今日ってすごいって思えたらしい。
そのエピソードを聞いて思いだしたのが、人生はアドベンチャーである、という話。
確かプロジェクトアドベンチャーの研修会で聞いた言葉なんじゃないかなあ。
プロジェクトアドベンチャーというのは、簡単に言えばアスレチックなど少し危険で、かつ他人と力を合わせなければならない冒険的状況を意図的につくり出すことによって、他者と協働することなどを経験的に学習するプログラムなんだけど、そのときの講師の人が「人生はアドベンチャー(冒険)」ということを語っていたのだ。
プロジェクトアドベンチャーは学校教育でも取り入れられているプログラムで、時には明確な「危険」を意図的につくり出すこともあるけど、大概はそこまでの準備はできないから、簡単な「課題」だけを設定して、集団でその課題を達成することを目指す場合が多くなる。
つまり、冒険的状況とは言えない中で、プログラムを行わなければならなくなってしまうのだ。
危機がなければ、アドベンチャー(冒険)とは言えない。
特に学校はそういった危機的状況を嫌がる傾向がある。
そういった環境でプロジェクトアドベンチャーを行うのはなかなか困難じゃないのか、なんて自分は思えるところがあったりもした。
「人生はアドベンチャー」という言葉は、もしかしたらそういう疑問についての返答としての意味合いも含んでいたのかもしれない。
そして自分は、その言葉にけっこう感銘を受けたんだよね。
確かに人生とはアドベンチャーに喩えられるかもしれないって。
今の社会というのは、生命に関わる危険がかなり極限まで排除されている。
そのことについて批判する気はないし、正常なことであるとも思えるのだけど、一方、危険がないことは、自分の生命や死を意識する場面を少なくしてしまうし、またその便利さゆえ、人と協働することを忘れがちにさせてしまう。
じゃあその社会を生きることが全くのところ冒険的要素を持ち合わせていないと言えるかというと、全然そうじゃない。
私たちは依然、様々な選択肢の中、様々な選択を行っている。
目的地までの道順を選んだり、目的地そのものを選んだり、何を買おうか迷ったり、仕事場に出かけたり、道に迷ったり、音楽を聴いたり、映画を観たり、人と話したり、その他数多くの行動における私たちが選ぶ選択肢は、それ自体たくさんの失敗に関する可能性がはらまれているという点でとっくにアドベンチャーであり、また、その小さな選択肢の積み重ねは、全体として大きな運命となって、私たちの人生を左右している。
あらゆることが洗練されきった今の世の中は、まるで何もかもを「安全」で包み込んでいるかのようであり、また「危険」や「失敗」を悪しきものとして排除しきったような素振りを見せるが、実際はそうじゃない。
私たちは依然、数多くのパッケージングされていない選択肢から自分の人生を選択しているのであり、そこには依然として危険や失敗が存在しているのだ。
そう考えると、途端に色褪せて見えていた日常が、まるでスリリングな冒険舞台のように思えてきて不思議な気分だった。
次はどんな冒険をしてやろうかと、思えてくるぐらいだった。
先のコンビニ受け取りのエピソードで自分が感銘を受けたのは、そのエピソードを話してくれた人の、潔さと冒険心である。
自分の選択がもたらした結果を、最後まで潔く「主役」として受け入れ、しかもその状況を大切な経験だって受け入れられる冒険心。
そこには色褪せたものとして語られがちな日常を、スリリングなものして見つめ続けられる初々しいばかりの視点があって、自分もまたそういった眼差しで再度この世の中を見直したいなあと思えたのだ。
そして、その態度はいずれ、生産性や利便性だけが優劣の判断材料だと振る舞い続ける世の中に対しての、強烈なアンチテーゼとして成立してしまうだろう。
そもそも楽しんだ勝ちだとするならば、とっくに勝利しているはずだ。
自分はそんなあなたを見習いたい。