世の中

教育などについて考えたことを書きます

アキツユコの作品について

前にも書いたけど、自分とChildiscとの出会いは最初から最高のものであったわけではなかった。当時の自分にとってレーベルオーナーの竹村延和は未だ洗練されたクラブサウンドというイメージが強く、Childiscのようなアマチュアリズム溢れる音楽との落差は非常に大きなもので、正直なところどう捉えて良いものかさっぱりわからなかった。今でこそChildiscの内包している価値観だとか美学だとかそれらはほとんど自分の血肉ともいえるものになっているけど、当時はなかなかその世界へと通じる扉を開くことができなかったのだ。

 

そんななかでも、Childiscの内包する世界への取っかかりみたいなのをつくってくれたのが、アキツユコだった。Childiscの立ち上げに関しては、スッパマクロパンチョップや谷村コオタ、アキツユコといった人たちがそのきっかけとなったと聞いているけど、そのなかで、自分がまず最初に理解できたのは、アキツユコの音楽だった。そして、彼女を入り口にして自分はChildiscの世界観をどんどん理解していった。そういう意味で、自分は彼女の音楽からとても強く影響を受けていると感じる。

 

 

アキツユコの音楽には、幼少の頃から習っていたエレクトーンの影響がとても強く及んでいる。彼女の音楽には、彼女特有のメロディというのが常に存在する。それはあたかも部屋で1人、鍵盤を前に、指の運びを楽しんでいる過程で偶然生まれるメロディのごとく、とても奔放で、おぼろげで、部屋のなか一瞬のうちに消え去るしかない美しい瞬間を見事なまでに内に刻んでいるようでもある。自分は知識が全然ないので彼女のメロディが楽典的にどんな特徴をもっているのかをここに記すことはできないが、彼女は彼女の考えたルールに則ってメロディを生み出していると聞く。それは、まるで子どもが遊びの中でルールを生み出していくような感覚に似ている。

 

 

彼女の音楽に感じるのは、「個」である。この世界がどんなふうに見え、どんなふうににおい、どんな味がして、どんな手触りで、どんなふうに聞こえているのか……特に音楽だから聴覚に関する情報が中心になるのだろうが、彼女の音楽には、彼女が五感を通じて感じた世界の姿そのものが記録されていると思える。もちろん、どんな音楽にせよ、そこには作り手が感じる世界の姿が記録されているのだろうが、彼女の音楽ほど、その世界を強く感じられるものはそうそうない。そして、私たちの誰もが、自分の五感を通じてでしか世界を認識することができないことからわかるように、五感とはつまり、その人特有のものであり個性そのものである。したがって、彼女の音楽が彼女の五感を強く感じさせるものであるならば、彼女の音楽はそのまま、彼女という「個」を強く示すものであるということができる。

 

彼女の音楽には、剥き出しの「個」が存在する。それは、遙か社会化される以前の「個」である。社会のしきたり、制度、常識、そういったものからかけ離れた場所にある「個」。音楽とは本来、全てがそういった「個」を表現するためのものなのかもしれないが、残念ながら多くの音楽は様々な社会制度(ジャンルや手法的束縛なども含む)からの影響によって、音楽のなかに本来あるはずの「個」をむしろぼやかし、全く違うものとして伝えるか、あるいは最初から伝えようともしていない。一方、アキツユコの音楽がこちらに対し、剥き出しの「個」を伝えることに成功しているのは、彼女が遊びのなかで生み出した個人的なルールをとても大切にしていて、その個人的なルールに従って音楽を生み出しているからだ。彼女の音楽に耳を澄ませば、彼女が1人部屋でエレクトーンに向かって音を奏でる姿が見え、私は彼女の剥き出しの五感に限りなく近づいていくことができる。

 

こうした、特定の社会制度を介さない形での「個」の発露というのは、彼女のみならず、Childisc全体のテーマでもあると感じる。「聴く」という、非常に個人的・個性的で、原始的・野性的な営みから音楽をつくるということ。そこには混じりっけなしの「個」があり、またそういったかたちで構築された音楽は、聴者の側に対しても、純粋に個人的で個性的な聴取のあり方を求めることになる。自分は彼女や、他のChildiscの幾つかの作品を耳にしていて、ときどきまるで自分の尊厳や人間性が回復されるような気分を味わうが、それは彼らの音楽が「個」に基づいて構築されたものであり、かつこちらに対しても「個」であることを求めるからだ。そこには純粋に自分の聴覚に従って解釈するしかない世界が広がっており、そういった世界を解釈することは同時に、自己の個性の最大限の発露にも繋がる。肩書きや法、しきたりなど、社会制度に則ったかたちで規定された「個」ではなく、遙かそれ以前に存在する、純粋に自分の五感によって生み出された「個」の手触りを、彼らの音楽を通じて確かめることができる。だからこそ、自分は彼らの音楽を聴いて、まるで自分自身が回復されていくような気分を味わうことになるのだろう(逆に言えば、どれだけいまの社会が、五感を蔑ろにしたかたちで成立しているのか、ということにもなる)。

 

アキツユコの音楽は、正にそういったChildiscの原理を体現するような音楽であると感じる。

 

Ongakushitsu

Ongakushitsu

 

 

もともと竹村延和のファンだったアキツユコが自身の楽曲を竹村延和を送ったきっかけは、『こどもと魔法』の際に行なったヴォーカリスト募集の告知だった。1stアルバム『音楽室』は、竹村延和をサウンド・プロデューサーに迎える形で制作された完全なインスト集。目的のない「遊び」の延長線上で奏でられたかのような楽曲たちは、その全てが「ひとりの世界」を内包しており、聴くたびにその純度の高さに驚かされてしまう。ジム・オルークのレーベルMoikaiからもリリースされた。

 

Hokane

Hokane

 

 

2ndアルバム『Hokane』。リリースは2006年と、時期としてはChildisc後期に位置する。最初に耳にしたときは、『音楽室』に比べて内向性のようなものが減ったと感じられ、その点で物足りないと思ってしまったのだが、その後、長い時間をかけて聴いていくあいだに、ある日とつぜん作品の良さや意図が理解できるようになり、いまではすっかり大好きな作品である。確かにそのベクトルは、『音楽室』に比べ外の世界へと向かっており、その先には驚くほど爽やかで多幸感のある光景が広がっているのだけど、その光景の手前にはしっかりとアキツユコ独自の世界観・ものの見方が横たわっていて、けっして安易なものに陥らせないことに成功している。特に「デューンとクラリネット」や「アキロ」「ノエルのオルガン」といった曲たちが映し出す心象風景の美しさには、耳を傾けるたびに驚かされる。単に可愛いだけの絵本、薄っぺらい童話、そういったものとは一線を画す本物のファンタジーがここに広がっている。

 

みみくりげ

みみくりげ

 

 

ゑでぃまぁこんと松井一平、アキツユコによるわすれろ草のアルバム『みみくりげ』も本当に驚きの作品だったけど、この作品についてはまた今度、改めて書きたいと思います。