世の中

教育などについて考えたことを書きます

『勉強するのは何のため?』苫野一徳

 

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

 

  何で勉強しなくてはいけないのか、なんて話は、教育に関わる仕事をしたことがある人なら、誰でも1度ぐらいは口にしたことがあるはずだ。教育に関わる仕事に就いていなくとも、例えば親の立場にいる人ならば、そういったことを話す機会というのはけっこうあったりするのかもしれない。

 

  子どもたちに対して何かを語ったことのある人ならわかると思うが、こういった「語り」というのはけっこう馬鹿にならない。思いもかけないタイミングでそういった「語り」を行う機会は訪れてしまうわけで、そんなときにスラッと説得力のある言葉を言えるかどうかは重要だ。とは言え、そう簡単に説得力のある言葉を言えるわけでもないのもまた事実であったりする。
 
  勉強する理由を語ることの裏には、たいてい勉強して欲しいという願望がある。私たちは子どもたちに勉強させたいから、勉強するもっともらしい理由を語るのだ。それはかなり自分本位とも言えるが、そう思うからこそもっともらしい理由を探ることになる。逆に、自分本位とも思えわない、もっともらしい理由を探すことすらしない人は、信用するに値しない。
 
 勉強する理由に対する解釈は千差万別、様々な切り口が存在する。人によっても違うし、語る相手によっても変わってくる。例えば小学校1年生が相手なら、将来役に立つからという切り口で話せばいいのだが、中学校辺りからそういった切り口は通じなくなってくる。「英語なんて話せなくても生きていける」なんて返しをしてくるのだから、少し手の込んだ切り口で話す必要が出てくる。「他の言語を勉強することによって、日本語の理解がもっと深まるんだよ」だとか「社会人になってからも勉強は続くんだから、今はその勉強の仕方を学んでいると考えた方が良い」だとかそういった切り口だ。とは言えたいていは「受験で必要だから」といういちばんつまらない理由に落ち着いてしまうのだけど。
 
 一方で、教育に関わる仕事に携わっていると、他の人たちの語る「勉強する理由」を耳にする機会にも恵まれる。そういったとき、必ずしもその全てが納得できるものではなかったりするのも事実だったりする。「勉強して、良い高校に入って、良い大学に入って、成功して……」というのが典型的なそれだけど、そういったことを口にする人はたいてい、自分自身が受験で成功した経験をもっていたりする。つまり自身の成功体験をもとに勉強する理由を語っているのだけど、問題はそういった成功体験が必ずしも他の人たちにも当てはまるわけではないというところにある。そもそも成功の尺度なんて人それぞれ違うわけで、そういった多様なものを自分の限られた経験だけで語ってしまうのは非常に危険だ。これは勉強する理由に限らず、例えば授業スタイルや子どもたちへの対応の仕方などについても同じことが言えるだろう。
 
 教育というのは、少なくともこの日本という場所で生まれたのならば、ほとんどの人が受けているはずのものである。だから私たちはついつい、自分が受けた学校教育をもとにして教育のことを語りがちになってしまうけど、実際のところ個人が受けた学校教育など、ごくごく限られたものでしかない。ある時代の、とある地域にある学校の、1つの小さなクラスで行われたことでしかないのだ。なのに人は、自分の受けた学校教育や自分の成功体験をまるで全てのように語ってしまう。これは教育関係者に限らない。誰もが一度は経験していることだからこそ、簡単に語れてしまうものなのだ。語れるからこそ、皆が口々に「正しい教育」を声高らかに主張し、収拾が付かなくなってしまったのが、今の日本の状況だとも思える。
 
 さて、苫野一徳の『勉強するのは何のため?』は、こういったややこしい教育の問題に対して、かなり真正面から取り組んだ著作だと思える。よく教育関係の本に見られる斜めからの切り口みたいなのは一切ない。教育学と哲学に関する豊富な知識を背景に、至極真っ当な答えを明確に示している。 まずは題名にもなっている「勉強するのは何のためなのか」という問いに対して取り組むのだが、その前に触れられるのが、「一般化のワナ」である。要するに「自分だけの限られた経験を、他の人にも当てはまるものとして考えること」なのだが、これは先にも触れたように、教育という分野においては非常に多く見られる現象である。まずはその一般化のワナに陥らないようにしようじゃないかと苫野氏は提案する。もうひとつ触れられるのが「問い方のマジック」である。要するに「二者択一の問い方をやめよう」「問われ方そのものを疑ってみよう」ということである。
 
 この2つを前提にして苫野氏は、勉強する理由について「唯一絶対の正解はない」という答えを導く。あっさりした答えではあるが、このあとに続く言葉が重要である。つまり「『自分はどういう時に勉強に意味があると思えるんだろう?』と問うことが重要」ということであり、「そしてその答えを見つけられたら、そう思えるための条件を自分で整えていけばいい」ということである。
 
 そして、苫野氏は「唯一絶対の正解はない」ことを踏まえつつ、あえて1つの答えを示す。それは「<自由>になるため」であるという。ここでいう<自由>とは「できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感」のことである。勉強する理由は、そういった状態になるためである、と。
 
 この苫野氏の切り口は、自分のようなひねくれた人間であっても納得がしやすい。例えば「夢」という言葉には一定の成功のイメージが含まれているが「自由」という言葉には各自がそれぞれ自分の理想の姿を想像する余地が残されている。そして苫野氏は学校という場所を、ヘーゲルの<自由の相互承認>の原理に則って、こう定義する。他者と関わることによって「<自由の相互承認>の感度を育む場所」である、と。
 
 苫野氏がわざわざ勉強する理由から学校で学ぶ意味にまで範囲を広げて語っているのは、おそらくネット環境の充実等によって、自宅にいながら十分に学べる環境が整いつつあることがひとつの理由なのだと思う。学ぶ理由はわかるが、なぜわざわざ学校に行かねばならないのか、という問いがどうしても発生してしまうのだ。そして、苫野氏が示す「<自由の相互承認>の感度を育む場所」という定義は、家庭と学校という環境の違いをみたときに自ずと出てくる答えでもあるし、また一方、近年注目を集めているシティズンシップ教育などのことを考えれば、至極真っ当な答えとなるだろう。道徳教育に関するコラムでも触れられているが、人間の道徳に関する感性は民主主義的共同体に参加することによって高められるものだ。社会に対する参加意識も同様である。つまり学校は単に勉強するだけの場所ではなく、民主主義的共同体に参加するための場所であるという側面が少なからずあり、今後はその側面が強調されていくだろうということなのである。
 
 そして、学校に付きものであるいじめの問題に触れつつ、苫野氏が最後に示すのは、「学校」のこれからの姿である。苫野氏は、「<自由の相互承認>の感度を育む場所」という前提を踏まえつつ、その枠組みを今よりもっとゆるめることを提案する。すなわち人間関係の流動性の確保である。
 
 以上、自分の考えを交えつつ、かなりざっと内容をまとめましましたが、実際に書かれている文章はもっと平易で、非常にわかりやすいものです。そして教育に関する多岐に渡る雑多な問題が非常に上手く整理されているという印象をもちました。教育に関わっている人たちはもちろん、保護者の方にもお薦めです。何よりも中高生にこそ読まれるべき(実際そこら辺の年代を想定して書かれたものでしょう)ものであると思います。