世の中

教育などについて考えたことを書きます

音遊びの会から考えたこと

三度、音遊びの会について。

 

昨日のハートネットTVで再確認できたけど「音遊びの会」は個と全体の両立への試みなのだと思う。個人個人が最大限の自由を実現しつつ、かつ全体として調和されている状態を、彼らは目指している。個々人が最大限の自由を実現しつつ、かつ全体としての調和が実現されているというのは、「自由の相互承認*1が最大限発揮されている」と言い換えることができるのだろう。

 

ある種の音楽は<自由の相互承認>が最大限発露された理想の状態を一時的にせよ実現できる効力を持っている。聴者はその音楽に耳を澄ますことによって自由の相互承認が最大限発露された状態がどんなものか知ることができる。だけど残念ながら多くの人にとっての音楽は、そういうものではない。

 

音楽というのは一方的に「素晴らしいもの」とされることが多い一方、外部の権威と非常に結びつきやすい。音の中から見つけられるものではなく、それ以外の外部から持ち込まれたものによってその音の価値が規定されることの方が遙かに多い。そしてそういった要素を強く持つ音楽は聴者を支配する。主従関係が発生する。

 

この部分を聴け、この部分で盛り上がれ、この部分で感動しろ、まるでこちらに対して指図をするかのような音楽は聴き手の聴覚に居場所を与えない。音楽とは音と聴者の2点によってのみ支えられるものでしかないというのに、人はすぐにそれを忘れがちになってしまう。しかし優れた、聴覚の方向を規定しない音楽だと、聴き手の聴覚は自由に放たれる。その<豊かさ>を知っているかどうかは音楽以外の、日常の場面でも大きい。

 

自由の相互承認が高められた豊かな場面を体験したことがあるかどうかは非常に大きい。その状態を知っていなければ、自分がいままさに体験している状態が不自由かどうかさえ判断できないからだ。それどころか、その不自由な状態こそが正当なものであるかのように振る舞って、他者に押しつけさえし始める(これがいまの日本の状態だと自分は感じている)。だから小さい頃から学校教育などを通して、その状態を少しでも経験した方が良いと思うんだよね。学校教育は今後そういう方向でやっていくべきだと自分は考えている。

 

一方、自分の場合、そういった<自由の相互承認>が最大限に高められた状態を、主には音楽を通して経験してきたのだと思う。考えてみれば、自分の好きなバンドというのは、全てのメンバーが最大限ステージで自由に振る舞いながら、それでいて1つの曲をしっかりと成立させている、そういう人たちばかりだった*2。そういった人たちの鳴らす音楽を聴くと、それがたった1音だけのことであっても、何か自分を束縛するあらゆるものから自分を解き放ってくれるような気分を味わってしまう(逆に言えば自分がいかにふだんの生活のなかで束縛されているか、ということなのだろう)。自分は音楽を通じて<自由の相互承認>が最大限に高められた状態への感度を高めてきた。そして音遊びの会の活動は、その理想の状態を一時的にせよこの世界に実現することができる最高の媒体であるということができる。

 

とは言え音遊びの会の場合は、大友さんの言うとおり、豊かすぎるところがあると思う。場合によっては、演奏をしてくれないことだってあり得るわけだからね、その<豊かさ>は、そこまで口当たりの良いものでもない。だけど、これも大友さんの言うとおり、それぐらい<豊かな経験>を、今の日本の社会はした方がいいのだろう。

音楽は今後、その指針になり得ると自分は信じている。

 

音の城/音の海

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